「普通」って、なんだろう
🌏Read in English
娘を産んでから、三日ほどで私は退院した。
本来なら、出産を終えて病院を出る日は、赤ちゃんを抱いて家へ帰り、そこから家族としての新しい生活が始まる日なのだと思っていたし、少なくとも妊娠中の私は、それを疑ったことすらなかった。
赤ちゃんを産んで、抱っこして、一緒に家へ帰って、夜になれば隣で眠っていて、泣いたら起きてミルクをあげる。
きっと大変なんだろうなとは思っていたけれど、それでも私は、そんな毎日が出産を境に自然と始まるものだと思っていた。
でも、私が病院を出る日、娘はNICUに残った。
私は退院する。
娘は入院したまま。
たった三日前まで、私たちは一つの身体の中でずっと一緒にいたのに、産まれた途端、私は家へ帰り、娘は病院に残ることになった。
私は赤ちゃんを産んだはずなのに、家へ帰っても赤ちゃんはいないし、夜になっても泣き声は聞こえず、隣に小さな身体が眠っているわけでもない。
お腹の中にも、もういない。
目の前にも、いない。
その感覚に、心がなかなか追いつかなかった。
毎晩、泣いた。
娘に会いたかった。
会いたいと思えば思うほど、
「なんでここにいないんだろう」
と思った。
出産したという事実は分かっているのに、ときどき、本当に私は赤ちゃんを産んだのだろうかと思うほどだった。
身体は出産を終えていて、お腹ももう妊娠していたときとは違うのに、それでも腕の中には娘がいない。
私は母親になったはずなのに、まだ自分が「ママになった」という実感を持てなかった。
母親になるというのは、赤ちゃんを産んだ瞬間に何かが突然変わって、自然と「私はお母さんなんだ」と思えるものだと、どこかで想像していた。
でも、私の場合はそうではなかった。
娘を産んだ日から母親になったはずなのに、心だけが少し遅れて、私たちのところへ向かっているようだった。
退院してからも、私たちは毎日NICUへ通った。
娘に会うために。
そして、ミルクを届けるために。
夫が休みの日は、二人で車に乗って病院へ向かい、それ以外の日は私が一人で電車に乗り、片道およそ90分かけて娘のところへ向かった。
往復すれば、それだけで三時間近くかかる。
出産したばかりの身体で、ミルクを持って毎日のようにその距離を往復する生活は、今振り返っても、あの頃が一番しんどかったと思う。
身体はまだ完全には戻っていないし、夜になれば娘のことを考えて泣いてしまう。
それでも朝になれば、
「今日も会いに行こう」
と思った。
夫が休みなら二人で車に乗り、仕事の日なら私は一人で電車に乗った。
どうやって行くかが違うだけで、娘に会いに行かない日はなかった。
夫も仕事が終わったあと、来られる日は病院へ来てくれた。
仕事を終えてから娘のところへ向かい、少しでも顔を見て、また家へ帰る。
私たちの日常は、いつの間にかNICUを中心に回るようになり、家にいる時間にも「次に娘に会える時間」のことを考えるようになっていた。
NICUに入って、娘の顔を見る。
ただ、それだけで涙が出る日があった。
何か悲しいことがあったわけでもなく、先生から悪い結果を聞いたわけでもないのに、ただ娘の顔を見ただけで自然と涙が流れてきた。
かわいい。
会いたかった。
今日も生きている。
頑張っている。
家に連れて帰りたい。
どうして一緒に帰れないんだろう。
いろいろな感情が混ざりすぎて、自分でも何の涙なのか分からず、娘を見ながら笑っているのに、涙だけが流れていることもあった。
そんな日々の中で、
「普通だったら、今頃どうしていたんだろう」
と考えることもあった。
もし娘が産まれて、そのまま一緒に退院できていたら、今頃は家で抱っこをして、夜泣きで寝不足になりながら、ミルクを飲ませ、オムツを替え、お風呂に入れていたのだろうか。
妊娠中に想像していた「赤ちゃんとの生活」は、まだ始まっていなかった。
その代わりに、私たちは毎日病院へ向かい、NICUの中で機器につながれた娘に会っていた。
それが、私たちにとっての産後だった。
授乳についても、想像していたものとは違った。
最初は母乳も出ていたけれど、次第になかなか思うように出なくなり、早い段階でミルク中心になっていった。
娘には口蓋裂があり、口から飲むこと自体にも練習が必要だったから、「母乳をあげる」ということ一つをとっても、私が思い描いていた授乳とは違っていた。
以前の私だったら、そういう一つ一つを、
「普通とは違う」
と思っていたのかもしれない。
普通なら、赤ちゃんと一緒に退院する。
普通なら、家で育児が始まる。
普通なら、赤ちゃんは口からミルクを飲む。
普通なら——。
でも、NICUへ毎日通っていると、だんだん分からなくなってきた。
そもそも、
「普通」って、なんなんだろう。
NICUには、娘だけではなく、いろいろな赤ちゃんがいた。
それぞれ違う理由で入院していて、それぞれ違う機器がついていて、それぞれの家族がその子に会いに来ていた。
そこにいると、「赤ちゃんが産まれたらこうなる」という一つの正解なんて、本当は最初からなかったのかもしれないと思うようになった。
すぐに家へ帰れる子もいる。
しばらく病院で過ごす子もいる。
自分でミルクを飲める子もいれば、飲む練習から始める子もいる。
呼吸することを助けてもらう子もいる。
そして、そのどれもが、その子にとっての人生の始まりだった。
娘は、NICUに約一か月入院した。
毎日会いに行く生活の中で少しずつ時間が過ぎていき、やがて先生から、娘の呼吸については、なんとか自分の力でやっていけそうだという話を聞いた。
その言葉は、本当に嬉しかった。
産まれる前からずっと心配していた呼吸。
場合によっては呼吸器が必要になるかもしれないと言われていた娘が、小さな身体で一生懸命に呼吸を続け、
「自分で呼吸できそう」
というところまで来てくれた。
一か月。
たった一か月かもしれない。
でも私たちにとっては、とても長い一か月だった。
そして娘は、最初の病院から、自宅の近くにある大学病院へ転院することになった。
まだ家に帰れるわけではなかった。
でも、少しだけ家に近づいた。
それだけでも、私には大きな前進のように感じられた。
大学病院へ移ってからは、今度は私たち自身が、娘と家で暮らすための準備を始めることになった。
そこでは、看護師さんたちが病院でやっているようなことを、私たちにもできるように一つずつ教えてくれた。
家に帰れば、いつでも隣に看護師さんがいるわけではなく、何かが起きたとき、まず娘のそばにいるのは私たちになる。
だから、胃管の扱い方やミルクのあげ方、娘の身体の状態を見るときにどこに注意すればいいのか、そしてお風呂の入れ方まで、家でいろいろな状況に対応できるよう、一つずつ覚えていった。
娘は中耳炎になりやすい可能性があるため、シャワーやお風呂では耳にできるだけ水が入らないように気をつける必要があることも教えてもらい、頭を流すときも身体を洗うときも、私たちは慎重にやらなければならなかった。
でも、その沐浴の時間が、私は好きだった。
私にとって沐浴は、ただ娘の身体をきれいにするための時間ではなく、
「私はこの子のママなんだ」
と実感することのできる、とても大切で、楽しみな時間になっていった。
毎晩、娘のいない家へ帰り、本当に自分は赤ちゃんを産んだのだろうかと思ってしまうほど母親になった実感を持てずにいた私にとって、自分の手で娘の小さな身体を支え、お湯をかけ、顔や身体をそっと洗ってあげられるその時間だけは、誰でもない私が、この子のお母さんなのだと思うことができた。
もちろん、最初は緊張した。
耳に水が入らないように気をつけながら、
「これで合っているのかな」
「苦しくないかな」
と、一つ一つ確認するように娘を洗った。
小さな頭を手のひらで支え、身体にそっとお湯をかけながら、
「気持ちいい?」
と話しかける。
娘の表情を見ながら、小さな腕や足に触れる。
NICUでは、どうしても機器や管が先に目に入ることがあった。
でも沐浴をしているときだけは、機器につながれた「患者としての娘」ではなく、私の腕の中に身体を預けている、ただの「私の娘」だった。
その温かさを自分の手で感じていると、
「ああ、私はこの子のママなんだ」
と、少しずつ実感することができた。
産まれた瞬間に突然、母親になったという実感が湧いたわけではなかった私にとって、沐浴の時間は、娘とのつながりを確かめられる時間であり、病院へ会いに行く毎日の中でも、いつの間にか楽しみにしている時間の一つになっていた。
そして今思えば、あの沐浴は、娘が家に帰るために私たちが覚えなければならない「練習」の一つであると同時に、私自身が娘の母親になっていくための時間でもあったのだと思う。
そんなふうに少しずつ家での生活を準備していく一方で、これから先のことを考えると、不安になることもまだたくさんあった。
その一つが、産まれたときから強く内側を向いていた娘の両足だった。
内反足が強いため、これから成長していく中で状態を見ながら治療を続ける必要があり、将来的には手術が必要になる可能性もあると説明された。
まだ首もすわっていない。
寝返りも、座ることも、立つことも、歩くことも、ずっと先の話だった。
それなのに、娘がいつか自分の足で立つ日のことを考えると、その未来の途中に「手術」という言葉があるかもしれないことが、やはり怖かった。
この小さな足で、いつか立てるだろうか。
歩けるようになるだろうか。
そんなことを考えながら娘の足を見ていると、まだ起きてもいない未来まで心配になった。
でも同時に、妊娠中の私とは少し違っていた。
あの頃は、分からない未来をただ怖がっていた。
今は違う。
もし手術が必要になったら、そのとき考えればいい。
必要な治療があるなら、そのとき娘と一緒に向き合えばいい。
今の私たちにできるのは、まだ歩くことではなく、娘が今日を元気に過ごせるように、一つずつ必要なことを覚えることだった。
普通なら、親になれば自然に覚えていくと思っていた育児。
でも私たちは、少し違うことも覚えなければならなかった。
最初は怖かった。
これを本当に家で自分たちだけでできるのだろうか。
もし何か起きたら。
もしミルクがうまく入らなかったら。
もし管に何かあったら。
もし呼吸がおかしくなったら。
考え始めれば、いくらでも怖くなった。
でも、看護師さんが一つずつ教えてくれるたびに、少しずつ、
「できるかもしれない」
という気持ちも出てきた。
初めてやることばかりなのだから、最初から上手にできるはずなんてない。
分からなければ聞けばいい。
できなければ、何度でも練習すればいい。
娘がミルクを飲む練習をしているように、
私たちも、
娘の親になる練習をしているのかもしれない。
そう思った。
産まれた瞬間に、私は突然、何でもできる「ママ」になったわけではなかった。
娘が産まれてから、毎日病院へ通って、抱っこをして、泣いて、先生の説明を聞いて、看護師さんから教えてもらい、沐浴をしながら娘の温かさを自分の手で感じて、少しずつ娘の身体のことを知っていった。
そして、その一つ一つを重ねながら、
私は少しずつ、
娘の母親になっていったのだと思う。
毎晩、娘がいない家で泣いていた。
「本当に私は産んだんだろうか」
と思うほど、母親になった実感がなかった。
でも今振り返ると、夫が休みの日に二人で車に乗って病院へ向かった時間も、夫が仕事の日に私が一人でミルクを持って片道90分の電車に乗った時間も、NICUで娘の顔を見ただけで涙が出た時間も、沐浴をしながら「ああ、私はこの子のママなんだ」と思えた時間も、全部、私が母親になっていく途中だったのだと思う。
そして私は、少しずつ別のことも考えるようになった。
「どうしてこの子が」
ではなく、
「この子だから、私たちのところに来たのかもしれない」
と。
病気のことも。
呼吸のことも。
ミルクのことも。
内反足のことも。
これから必要になるかもしれない治療や手術のことも。
決して簡単ではない。
これから先、もっと大変なことがあるのかもしれない。
それでも、
私たちのもとだから、この子は生きていける。
そんなふうに思うようになった。
何か特別な根拠があったわけではないし、自分たちなら何でもできるという自信があったわけでもなく、むしろ不安だらけだった。
それでも、この子が私たちのところへ産まれてきてくれたことには、何か意味があるような気がした。
だから、私たちが覚えればいい。
できないなら練習すればいい。
分からなければ教えてもらえばいい。
怖くなったら、また一つずつ考えればいい。
娘が少しずつ生きる力を身につけているように、私たちも少しずつ、この子と生きていく力を身につけていけばいい。
「普通の家族」とは、どんな家族なんだろう。
今でも、よく分からない。
赤ちゃんと一緒に退院することなのか。
母乳をあげることなのか。
何の機器も使わずに育てることなのか。
病院へ通わずに暮らすことなのか。
たぶん、そんなことではない。
私たちは、
私たちのやり方で家族になっていけばいい。
娘には娘のペースがあって、
私たちには私たちの始まり方がある。
それでいい。
一か月間のNICU生活を終え、家の近くの大学病院へ移った娘を見ながら、私は少しずつ、そう思えるようになっていた。
いとちゃん。
あなたが産まれてから、私は何度も「普通」という言葉について考えた。
でも今は、普通かどうかなんて、少しずつどうでもよくなってきた。
あなたが今日も息をして、
私たちがあなたに会えて、
昨日できなかったことが一つできるようになって、
また一緒に明日を迎えられる。
それだけでいい。
私たちはまだ、
あなたと一緒に家へ帰るための途中にいる。
でも、
少しずつ近づいている。
あなたが私たちの娘になるためではなく、
私たちが、
あなたのパパとママになっていくために。
あの一か月は、
きっと必要な時間だったのだと思う。