カテゴリー: 日本語

  • 03|なぜミルクをうまく飲めないの?

    口蓋裂と胃管栄養について

    赤ちゃんにとって、ミルクを飲むことは毎日の大切な時間。

    でも、いとちゃんにとっては、決して簡単なことではありませんでした。

    いとちゃんには、生まれつき「口蓋裂(こうがいれつ)」があります。

    そのため、お口から十分な量のミルクを飲むことが難しく、現在も鼻から胃へ通したチューブを使って栄養を届けています。

    今回は、口蓋裂とはどのような状態なのか、なぜミルクが飲みにくくなるのか、そして私たちが経験してきた胃管栄養についてお話しします。

    口蓋裂とは?

    口蓋とは、口の中の天井にあたる部分のことです。

    この部分は、口と鼻の空間を隔てる役割を持っています。

    口蓋裂とは、生まれつき口蓋の一部がつながっておらず、裂け目がある状態を指します。

    裂け目の位置や大きさは、一人ひとり異なります。

    口蓋裂があると、哺乳の際に必要な口の中の圧力を作りにくくなり、ミルクを吸うことが難しくなる場合があります。

    また、ミルクが鼻へ流れやすくなることもあります。

    ただし、口蓋裂があっても、専用の哺乳瓶などを使ってお口から飲める赤ちゃんもいます。

    必要なサポートは、それぞれの状態によって違います。

    なぜミルクを飲むのが難しいの?

    赤ちゃんは、ただ口を動かしているだけでミルクを飲んでいるわけではありません。

    吸うこと、飲み込むこと、そして呼吸すること。

    この3つを上手に協調させながら、ミルクを飲んでいます。

    ところが口蓋裂があると、口の中を密閉しにくく、通常の哺乳方法では十分な吸う力を作れないことがあります。

    さらに、赤ちゃんによっては、飲み込みや呼吸の状態にも配慮が必要です。

    そのため、単に「練習すれば飲めるようになる」というものではありません。

    安全に栄養を取れる方法を、医療者と一緒に考えていくことが大切になります。

    いとちゃんのミルク事情

    いとちゃんも、お口からミルクを飲むことが難しい赤ちゃんでした。

    哺乳を助けるためのマウスピースなども試しましたが、思うように飲める量は増えませんでした。

    そこで、必要な栄養を届けるために使っているのが、胃管です。

    鼻から細いチューブを入れ、胃まで通してミルクを届ける方法です。

    私たちの場合、ミルクの注入には約30分。

    授乳の時間が来るたびに準備をして、チューブの状態を確認し、教わった方法でゆっくりと注入していきます。

    生まれて間もない頃は、約3時間おきのミルク。

    ようやく注入が終わったと思えば、次の時間が近づいてくる。

    育児を楽しむ余裕よりも、毎日の作業を一つずつこなすことに精いっぱいだった時期もありました。

    胃管を使えば、それで安心?

    胃管は、必要な栄養や水分を届けるための大切な方法です。

    ただし、胃管を使っていても、注意することはあります。

    いとちゃんは、以前、ミルクの吐き戻しがとても多い時期がありました。

    せっかく注入したミルクを戻してしまい、そのたびに服を着替えさせる。

    一日に何度も着替え、洗濯物が増えていく日々。

    吐き戻しがあると、栄養が足りているのか、身体は大丈夫なのかと心配にもなります。

    幸い、成長とともに吐き戻しは本当に少なくなりました。

    お口から飲める量は大きく変わっていなくても、こうした小さな変化が、私たちにはとても嬉しいことでした。

    なお、胃管は位置の確認や管理が重要な医療器具です。注入方法や交換方法は、必ず医療者から指導を受ける必要があります。

    お口から飲めるようになるの?

    口蓋裂がある赤ちゃんの哺乳方法は、口蓋の状態だけでなく、呼吸や飲み込み、全身の発達などによっても変わります。

    専用の哺乳器具を使用する場合もあれば、胃管などによる栄養補助が必要な場合もあります。

    口蓋裂の手術が検討されることもありますが、手術の時期や、その後の哺乳の変化には個人差があります。

    手術をすれば必ずすぐに飲めるようになる、というわけではありません。

    いとちゃんも、少しずつお口を使う経験を重ねています。

    私たちが大切にしたいのは、ほかの赤ちゃんと同じ速さで飲めるようになることではなく、いとちゃんが安全に、無理なく栄養を取れること。

    そして、いつか食べたり飲んだりする楽しさを、いとちゃんなりに感じられたら嬉しいと思っています。

    最後に

    赤ちゃんがミルクを飲む。

    当たり前のように思っていたことが、実はとても複雑で、大切な身体の働きなのだと知りました。

    胃管をつけている姿を見て、心配してくださる方もいます。

    でも、このチューブは、いとちゃんが元気に成長していくための大切な支えです。

    ミルクをお口から飲める量が増えなくても、吐き戻しが減ったり、笑顔が増えたり、身体が少しずつ大きくなったり。

    成長は、一つの数字だけでは測れません。

    いとちゃんには、いとちゃんのペースがある。

    これからも、その小さな変化を一つずつ喜びながら、一緒に歩いていきたいと思っています。

    ※この記事は、口蓋裂と胃管栄養についての一般的な情報と、いとちゃん個人の経験を紹介するものです。SEDCのある方すべてに口蓋裂が生じるわけではありません。哺乳方法や胃管の管理、治療方針については、必ず担当医にご相談ください。

  • 02|なぜ「首」に注意が必要なの?

    SEDCと頸椎について

    いとちゃんの病気について知っていく中で、私たちが特に気をつけてきた場所があります。

    それが、「首」です。

    先天性脊椎骨端異形成症(SEDC)は、骨や軟骨の成長に特徴がある病気です。

    でも最初の頃は、

    「どうして首がそんなに重要なの?」

    「普通に抱っこしていいの?」

    「寝返りやうつ伏せは?」

    分からないことばかりでした。

    そして、いとちゃん自身もレントゲン検査によって、頸椎に特徴があることが分かりました。

    今回は、SEDCと首の関係について、医学的に分かっていることと、私たちが実際に経験してきたことを一緒に書いていきます。

    ※この記事では一般的な医学情報と、いとちゃん個人の経験を紹介しています。同じSEDCでも頸椎の状態や必要な対応は一人ひとり異なります。実際の検査や生活上の注意については、必ず担当医に確認してください。


    そもそも「頸椎」ってどこ?

    頸椎(けいつい)とは、首の部分にある背骨のことです。

    一般的には7個の椎骨からできていて、頭を支えながら、首を曲げたり伸ばしたり、左右を向いたりする動きを支えています。

    そして、とても重要なのが、

    その中を脊髄が通っている

    ということです。

    脊髄は、脳と身体をつなぐ重要な神経の通り道です。

    そのため、首について考えるときは、単に「骨の形」だけではなく、その中を通る神経を守るという視点も大切になります。


    SEDCでは、なぜ首に注意するの?

    SEDCは、Ⅱ型コラーゲンに関係する骨系統疾患の一つです。

    SEDCを含むⅡ型コラーゲン疾患では、頸椎に不安定性が生じることがあり、状態によっては脊髄が圧迫されるリスクがあります。

    そのため、頸椎の状態を画像検査などで確認することが重要とされています。

    つまり、

    「SEDCだから首が弱い」

    という単純な話ではなく、

    その子の首が実際にどんな状態なのかを知ることが大切

    ということです。


    いとちゃんの場合

    いとちゃんも、レントゲンで首の状態を確認しています。

    その検査で私たちは、医師から

    本来あるはずの頸椎の骨が一つ確認できず、通常より1椎少ない状態

    と説明を受けました。

    病名について調べて、

    「SEDCでは首に注意が必要」

    という知識は持っていました。

    でも、実際にレントゲンでいとちゃん自身の首の状態を知ると、その言葉の意味が一気に現実的なものになりました。

    ただ「病気だから気をつける」のではなく、

    「いとちゃんの身体には、こういう特徴がある。だから首を大切にしよう」

    という考え方に変わりました。


    7ヶ月頃まで、必ず首を支えていました

    私たちが特に意識していたのが、首を支えることです。

    一般的な赤ちゃんでも、生まれて間もない時期は首を支えて抱っこします。

    でも、いとちゃんの場合は少し違いました。

    身体が成長して、自分で動けることが増えてきてからも、

    生後7ヶ月頃までは、抱っこするときなど必ず首を支えるようにしていました。

    「もう大丈夫そうだから」

    「本人が動かせているから」

    という見た目だけでは判断せず、

    首にできるだけ大きな負担をかけないようにする。

    それが、私たちが日常生活の中で続けてきたことの一つです。

    もちろん、

    「SEDCの赤ちゃんは7ヶ月まで首を支える必要がある」

    という意味ではありません。

    これは、あくまでいとちゃんの場合です。

    同じ病名でも、骨の状態や頸椎の安定性、成長の仕方は一人ひとり違います。

    だからこそ、

    「何ヶ月になったから大丈夫」

    ではなく、

    その子の身体の状態を確認しながら判断すること

    が大切なのだと思います。


    元気そうに見える=首に問題がない、ではない

    赤ちゃんが笑っている。

    元気に手足を動かしている。

    自分で首を動かしている。

    そうすると、

    「もう大丈夫なのかな」

    と思ってしまうこともあります。

    でも、骨の形や頸椎の安定性は、外から見ているだけでは分かりません。

    SEDCを含むⅡ型コラーゲン疾患では、頸椎の不安定性や脊髄への影響を確認するため、必要に応じて画像検査が行われます。

    GeneReviewsでは、診断後の評価として頸椎の屈曲・伸展X線が挙げられ、必要な場合にはMRIによる評価も検討されています。

    だから私たちは、

    「元気そうだから大丈夫」と決めるのではなく、必要なところはきちんと調べる。

    ということを大切にしています。


    日常生活で、何を気をつければいい?

    これは、同じ病気のお子さんを育てるご家族にとって、特に気になることだと思います。

    「抱っこは?」

    「うつ伏せは?」

    「寝返りは?」

    「遊びは?」

    「運動は?」

    調べれば調べるほど、何をさせるのも怖くなってしまうことがあります。

    でも、すべてを怖がって止めてしまうことが正解とも限りません。

    頸椎に不安定性がある場合には、首を極端に曲げたり反らしたりする動作や、強い衝撃につながる活動について注意が必要になることがあります。

    ただし、必要な制限はその子の状態によって異なります。

    だから、ネット上の情報だけを見て、

    「これは全部やってはいけない」

    と決めるのではなく、

    担当医に、

    「うちの子の場合、日常生活で何に気をつければいいですか?」

    と具体的に聞くことが大切だと思います。


    手術や全身麻酔のときにも

    首の状態は、普段の生活だけではなく、手術や全身麻酔の際にも重要です。

    全身麻酔では、気道を確保する際などに首を動かすことがあります。

    Ⅱ型コラーゲン疾患では、全身麻酔の前に頸椎の状態を確認することが推奨されています。

    いとちゃんのように頸椎に特徴がある場合は特に、

    「この子にはSEDCがあり、頸椎にも特徴があります」

    という情報を医療者に共有することは、とても大切だと感じています。

    普段診てもらっている病院だけでなく、別の病院や救急を受診するときにも伝えられるようにしておきたい情報の一つです。


    「首に注意」と言われると、怖くなる

    私たちも最初はそうでした。

    首は大切な神経が通っている場所。

    さらに、

    「頸椎が一つ少ない」

    と説明を受ける。

    そう聞けば、

    「動かして大丈夫なのかな」

    「もし何か起きたらどうしよう」

    と考えてしまいます。

    でも、今は少し考え方が変わりました。

    知ることは、怖がるためではなく、守るためにある。

    首の状態を知る。

    必要な検査を受ける。

    生活の中で気をつけることを知る。

    そして、その範囲の中で、

    いとちゃんができることを増やしていく。

    病気があるから何もさせないのではなく、

    身体の特徴を知ったうえで、その子に合った経験を増やしていく。

    私たちは、そんなふうに考えています。


    私たちが知っておいてよかったこと

    SEDCについて調べていると、

    「頸椎不安定性」

    「脊髄圧迫」

    といった怖く感じる言葉が出てきます。

    もちろん、リスクについて知ることは大切です。

    でも、私たちにとって本当に大切だったのは、

    「SEDCでは首に問題が起こる可能性がある」

    という情報だけではありませんでした。

    実際にレントゲンを撮って、

    「いとちゃんの首はどうなっているのか」

    を知れたこと。

    そして、その結果をもとに、

    「じゃあ、私たちはどうしていこう」

    と考えられたことです。

    病名は同じでも、身体は一人ひとり違います。

    だから、

    病気を知る。
    その子自身の身体を知る。
    そして、その子に必要なことを考える。

    この3つを大切にしていきたいと思っています。


    同じ病気のお子さんを育てるご家族へ

    もし今、

    「首が心配で、何をさせていいのか分からない」

    という方がいたら、

    ネットで「SEDCでは何をしてはいけないのか」を探し続けるだけではなく、

    担当の先生に、

    「この子の頸椎は、今どんな状態ですか?」

    「日常生活で避けた方がいい動きはありますか?」

    「今後、どんな検査をしていきますか?」

    と聞いてみるのも一つだと思います。

    一般的な病気の情報を知ることも大切。

    でも、

    目の前にいるその子の身体を知ることは、もっと大切。

    いとちゃんを育てながら、私たちはそう感じています。


    次の記事

    03|骨の病気なのに、なぜ目や耳にも?
    ― Ⅱ型コラーゲンと身体のつながり

  • 01|先天性脊椎骨端異形成症とは?

    娘が診断されて、私たちが知ったこと

    「先天性脊椎骨端異形成症」

    いとちゃんが生まれるまで、私たちはこの病名を知りませんでした。

    初めて聞いたときは、

    どんな病気なのか。
    どんな成長をしていくのか。
    歩けるようになるのか。
    これからどんな生活になるのか。

    分からないことばかりでした。

    病名を検索すると、たくさんの症状や合併症が出てきます。

    知れば知るほど安心するというより、逆に不安になることもありました。

    でも、いとちゃんと一緒に過ごしてきた今だから思うことがあります。

    病気について知ることと、その子の未来を決めつけることは違う。

    この記事では、先天性脊椎骨端異形成症について、私たち自身が知りたかったことを中心に、できるだけ分かりやすくまとめます。

    ※この記事は一般的な医学情報と私たち家族の経験をもとにまとめています。症状や経過には個人差があります。診断や治療については、必ず担当の医療機関にご相談ください。


    先天性脊椎骨端異形成症とは?

    先天性脊椎骨端異形成症は、英語で

    Spondyloepiphyseal Dysplasia Congenita(SEDC)

    と呼ばれる、骨や軟骨の発達に影響する骨系統疾患のひとつです。

    難しい名前ですが、言葉を分けてみると、

    「脊椎」=背骨
    「骨端」=腕や脚などの長い骨の端の部分
    「異形成」=形成や発達に特徴があること

    という意味があります。

    そのため、背骨や手足の骨の成長などに特徴が現れ、低身長や身体のプロポーションの違いなどがみられることがあります。 


    原因は何?

    典型的なSEDCは、COL2A1という遺伝子の病的な変化によって起こります。

    COL2A1は、身体の中でⅡ型コラーゲンを作るために重要な遺伝子です。

    「コラーゲン」と聞くと肌をイメージするかもしれませんが、Ⅱ型コラーゲンは軟骨などの組織にとって、とても重要な存在です。

    そのためCOL2A1の変化によって、骨や軟骨の発達などに影響が現れます。 

    そして、私たちが病気について調べていく中で知ったのが、

    「骨だけを見ていればいい病気ではない」

    ということでした。


    どんな特徴があるの?

    SEDCでは、低身長や身体のプロポーションの特徴だけでなく、人によってさまざまな症状がみられることがあります。

    たとえば、

    ・背骨や首の骨の問題
    ・股関節などの関節の問題
    ・近視などの目の問題
    ・聴力の問題
    ・口蓋裂
    ・内反足
    ・呼吸に関する問題

    などが報告されています。 

    ただ、ここでとても大切なのは、

    SEDCだからといって、これらすべてが起こるわけではない

    ということです。

    同じ病名でも、症状の現れ方や程度には個人差があります。


    特に大切な「首」

    私たちがSEDCについて知っていく中で、特に大切だと感じたもののひとつが首の骨(頸椎)です。

    SEDCでは、首の骨に不安定性がみられることがあり、場合によっては脊髄に影響する可能性があります。

    そのため、必要に応じて専門医による画像検査などで状態を確認していくことが重要とされています。 

    「見た目では元気だから大丈夫」

    だけでは分からない部分だからこそ、病気について正しく知っておくことの大切さを感じました。

    首については、次の記事でさらに詳しく書きます。


    骨の病気なのに、目や耳にも?

    これも最初は不思議でした。

    Ⅱ型コラーゲンは軟骨だけに存在するものではなく、眼の硝子体などにも関係しています。

    そのため、SEDCでは近視などの眼の問題や、聴力の問題がみられることがあります。 

    「骨の病気」という言葉だけでは分からないことが、たくさんありました。

    だからこそ、整形外科だけではなく、その子の状態に応じてさまざまな診療科と関わっていくことがあります。


    遺伝する病気なの?

    SEDCは一般に常染色体優性遺伝の形式をとります。

    ただし、「遺伝性疾患=必ず親から受け継いだ」という意味ではありません。

    両親には同じ遺伝子変化がなく、子どもに新しく遺伝子の変化が生じるケースもあります。 

    遺伝については、家族ごとの遺伝子検査の結果などによって話が変わってくるため、専門医や遺伝カウンセリングで確認することが大切です。

    このテーマも、別の記事で詳しくまとめます。


    病名を知ったとき、一番怖かったこと

    私たちが怖かったのは、病名そのものよりも、

    「この子の未来が分からないこと」

    だったのかもしれません。

    検索すればするほど、

    「こんな症状が出るかもしれない」
    「こんな合併症があるかもしれない」

    という情報が増えていきました。

    もちろん、必要な情報を知っておくことは大切です。

    でも今は、

    未来のことなんて、その時になってみないと分からない。

    そう思っています。

    不安がなくなったわけではありません。

    必要な検査は受ける。
    注意するべきことは知っておく。
    病気についても勉強する。

    でも、それと同時に、

    まだ起きていないことだけを見て、今のいとちゃんを見失いたくない。

    とも思っています。


    病名だけでは、その子の人生は分からない

    いとちゃんと生活していると、

    昨日できなかったことが、今日できるようになったり。

    何気ないことで笑ったり。

    予想していなかったことに悩んだり。

    毎日いろいろなことが起こります。

    それはきっと、病気があってもなくても同じなのだと思います。

    医学的な情報の中には、その子がどんな笑い方をするのかも、何が好きになるのかも、どんな人生を歩んでいくのかも書かれていません。

    だから私たちは、

    病気について正しく知る。
    必要なことには備える。
    でも、病名だけでその子の未来を決めない。

    そんなふうに、いとちゃんと一緒に歩いていきたいと思っています。

    そしてこの記録が、

    同じ病気のお子さんを育てているご家族にも、
    病気について初めて知った方にも、

    「知ること」のきっかけになれば嬉しいです。


    次の記事

    02|なぜ「首」に注意が必要なの?
    ― SEDCと頸椎について

  • いとちゃんの物語 第二章 第四話

    「普通」って、なんだろう

    🌏Read in English

    娘を産んでから、三日ほどで私は退院した。

    本来なら、出産を終えて病院を出る日は、赤ちゃんを抱いて家へ帰り、そこから家族としての新しい生活が始まる日なのだと思っていたし、少なくとも妊娠中の私は、それを疑ったことすらなかった。

    赤ちゃんを産んで、抱っこして、一緒に家へ帰って、夜になれば隣で眠っていて、泣いたら起きてミルクをあげる。

    きっと大変なんだろうなとは思っていたけれど、それでも私は、そんな毎日が出産を境に自然と始まるものだと思っていた。

    でも、私が病院を出る日、娘はNICUに残った。

    私は退院する。

    娘は入院したまま。

    たった三日前まで、私たちは一つの身体の中でずっと一緒にいたのに、産まれた途端、私は家へ帰り、娘は病院に残ることになった。

    私は赤ちゃんを産んだはずなのに、家へ帰っても赤ちゃんはいないし、夜になっても泣き声は聞こえず、隣に小さな身体が眠っているわけでもない。

    お腹の中にも、もういない。

    目の前にも、いない。

    その感覚に、心がなかなか追いつかなかった。

    毎晩、泣いた。

    娘に会いたかった。

    会いたいと思えば思うほど、

    「なんでここにいないんだろう」

    と思った。

    出産したという事実は分かっているのに、ときどき、本当に私は赤ちゃんを産んだのだろうかと思うほどだった。

    身体は出産を終えていて、お腹ももう妊娠していたときとは違うのに、それでも腕の中には娘がいない。

    私は母親になったはずなのに、まだ自分が「ママになった」という実感を持てなかった。

    母親になるというのは、赤ちゃんを産んだ瞬間に何かが突然変わって、自然と「私はお母さんなんだ」と思えるものだと、どこかで想像していた。

    でも、私の場合はそうではなかった。

    娘を産んだ日から母親になったはずなのに、心だけが少し遅れて、私たちのところへ向かっているようだった。

    退院してからも、私たちは毎日NICUへ通った。

    娘に会うために。

    そして、ミルクを届けるために。

    夫が休みの日は、二人で車に乗って病院へ向かい、それ以外の日は私が一人で電車に乗り、片道およそ90分かけて娘のところへ向かった。

    往復すれば、それだけで三時間近くかかる。

    出産したばかりの身体で、ミルクを持って毎日のようにその距離を往復する生活は、今振り返っても、あの頃が一番しんどかったと思う。

    身体はまだ完全には戻っていないし、夜になれば娘のことを考えて泣いてしまう。

    それでも朝になれば、

    「今日も会いに行こう」

    と思った。

    夫が休みなら二人で車に乗り、仕事の日なら私は一人で電車に乗った。

    どうやって行くかが違うだけで、娘に会いに行かない日はなかった。

    夫も仕事が終わったあと、来られる日は病院へ来てくれた。

    仕事を終えてから娘のところへ向かい、少しでも顔を見て、また家へ帰る。

    私たちの日常は、いつの間にかNICUを中心に回るようになり、家にいる時間にも「次に娘に会える時間」のことを考えるようになっていた。

    NICUに入って、娘の顔を見る。

    ただ、それだけで涙が出る日があった。

    何か悲しいことがあったわけでもなく、先生から悪い結果を聞いたわけでもないのに、ただ娘の顔を見ただけで自然と涙が流れてきた。

    かわいい。

    会いたかった。

    今日も生きている。

    頑張っている。

    家に連れて帰りたい。

    どうして一緒に帰れないんだろう。

    いろいろな感情が混ざりすぎて、自分でも何の涙なのか分からず、娘を見ながら笑っているのに、涙だけが流れていることもあった。

    そんな日々の中で、

    「普通だったら、今頃どうしていたんだろう」

    と考えることもあった。

    もし娘が産まれて、そのまま一緒に退院できていたら、今頃は家で抱っこをして、夜泣きで寝不足になりながら、ミルクを飲ませ、オムツを替え、お風呂に入れていたのだろうか。

    妊娠中に想像していた「赤ちゃんとの生活」は、まだ始まっていなかった。

    その代わりに、私たちは毎日病院へ向かい、NICUの中で機器につながれた娘に会っていた。

    それが、私たちにとっての産後だった。

    授乳についても、想像していたものとは違った。

    最初は母乳も出ていたけれど、次第になかなか思うように出なくなり、早い段階でミルク中心になっていった。

    娘には口蓋裂があり、口から飲むこと自体にも練習が必要だったから、「母乳をあげる」ということ一つをとっても、私が思い描いていた授乳とは違っていた。

    以前の私だったら、そういう一つ一つを、

    「普通とは違う」

    と思っていたのかもしれない。

    普通なら、赤ちゃんと一緒に退院する。

    普通なら、家で育児が始まる。

    普通なら、赤ちゃんは口からミルクを飲む。

    普通なら——。

    でも、NICUへ毎日通っていると、だんだん分からなくなってきた。

    そもそも、

    「普通」って、なんなんだろう。

    NICUには、娘だけではなく、いろいろな赤ちゃんがいた。

    それぞれ違う理由で入院していて、それぞれ違う機器がついていて、それぞれの家族がその子に会いに来ていた。

    そこにいると、「赤ちゃんが産まれたらこうなる」という一つの正解なんて、本当は最初からなかったのかもしれないと思うようになった。

    すぐに家へ帰れる子もいる。

    しばらく病院で過ごす子もいる。

    自分でミルクを飲める子もいれば、飲む練習から始める子もいる。

    呼吸することを助けてもらう子もいる。

    そして、そのどれもが、その子にとっての人生の始まりだった。

    娘は、NICUに約一か月入院した。

    毎日会いに行く生活の中で少しずつ時間が過ぎていき、やがて先生から、娘の呼吸については、なんとか自分の力でやっていけそうだという話を聞いた。

    その言葉は、本当に嬉しかった。

    産まれる前からずっと心配していた呼吸。

    場合によっては呼吸器が必要になるかもしれないと言われていた娘が、小さな身体で一生懸命に呼吸を続け、

    「自分で呼吸できそう」

    というところまで来てくれた。

    一か月。

    たった一か月かもしれない。

    でも私たちにとっては、とても長い一か月だった。

    そして娘は、最初の病院から、自宅の近くにある大学病院へ転院することになった。

    まだ家に帰れるわけではなかった。

    でも、少しだけ家に近づいた。

    それだけでも、私には大きな前進のように感じられた。

    大学病院へ移ってからは、今度は私たち自身が、娘と家で暮らすための準備を始めることになった。

    そこでは、看護師さんたちが病院でやっているようなことを、私たちにもできるように一つずつ教えてくれた。

    家に帰れば、いつでも隣に看護師さんがいるわけではなく、何かが起きたとき、まず娘のそばにいるのは私たちになる。

    だから、胃管の扱い方やミルクのあげ方、娘の身体の状態を見るときにどこに注意すればいいのか、そしてお風呂の入れ方まで、家でいろいろな状況に対応できるよう、一つずつ覚えていった。

    娘は中耳炎になりやすい可能性があるため、シャワーやお風呂では耳にできるだけ水が入らないように気をつける必要があることも教えてもらい、頭を流すときも身体を洗うときも、私たちは慎重にやらなければならなかった。

    でも、その沐浴の時間が、私は好きだった。

    私にとって沐浴は、ただ娘の身体をきれいにするための時間ではなく、

    「私はこの子のママなんだ」

    と実感することのできる、とても大切で、楽しみな時間になっていった。

    毎晩、娘のいない家へ帰り、本当に自分は赤ちゃんを産んだのだろうかと思ってしまうほど母親になった実感を持てずにいた私にとって、自分の手で娘の小さな身体を支え、お湯をかけ、顔や身体をそっと洗ってあげられるその時間だけは、誰でもない私が、この子のお母さんなのだと思うことができた。

    もちろん、最初は緊張した。

    耳に水が入らないように気をつけながら、

    「これで合っているのかな」

    「苦しくないかな」

    と、一つ一つ確認するように娘を洗った。

    小さな頭を手のひらで支え、身体にそっとお湯をかけながら、

    「気持ちいい?」

    と話しかける。

    娘の表情を見ながら、小さな腕や足に触れる。

    NICUでは、どうしても機器や管が先に目に入ることがあった。

    でも沐浴をしているときだけは、機器につながれた「患者としての娘」ではなく、私の腕の中に身体を預けている、ただの「私の娘」だった。

    その温かさを自分の手で感じていると、

    「ああ、私はこの子のママなんだ」

    と、少しずつ実感することができた。

    産まれた瞬間に突然、母親になったという実感が湧いたわけではなかった私にとって、沐浴の時間は、娘とのつながりを確かめられる時間であり、病院へ会いに行く毎日の中でも、いつの間にか楽しみにしている時間の一つになっていた。

    そして今思えば、あの沐浴は、娘が家に帰るために私たちが覚えなければならない「練習」の一つであると同時に、私自身が娘の母親になっていくための時間でもあったのだと思う。

    そんなふうに少しずつ家での生活を準備していく一方で、これから先のことを考えると、不安になることもまだたくさんあった。

    その一つが、産まれたときから強く内側を向いていた娘の両足だった。

    内反足が強いため、これから成長していく中で状態を見ながら治療を続ける必要があり、将来的には手術が必要になる可能性もあると説明された。

    まだ首もすわっていない。

    寝返りも、座ることも、立つことも、歩くことも、ずっと先の話だった。

    それなのに、娘がいつか自分の足で立つ日のことを考えると、その未来の途中に「手術」という言葉があるかもしれないことが、やはり怖かった。

    この小さな足で、いつか立てるだろうか。

    歩けるようになるだろうか。

    そんなことを考えながら娘の足を見ていると、まだ起きてもいない未来まで心配になった。

    でも同時に、妊娠中の私とは少し違っていた。

    あの頃は、分からない未来をただ怖がっていた。

    今は違う。

    もし手術が必要になったら、そのとき考えればいい。

    必要な治療があるなら、そのとき娘と一緒に向き合えばいい。

    今の私たちにできるのは、まだ歩くことではなく、娘が今日を元気に過ごせるように、一つずつ必要なことを覚えることだった。

    普通なら、親になれば自然に覚えていくと思っていた育児。

    でも私たちは、少し違うことも覚えなければならなかった。

    最初は怖かった。

    これを本当に家で自分たちだけでできるのだろうか。

    もし何か起きたら。

    もしミルクがうまく入らなかったら。

    もし管に何かあったら。

    もし呼吸がおかしくなったら。

    考え始めれば、いくらでも怖くなった。

    でも、看護師さんが一つずつ教えてくれるたびに、少しずつ、

    「できるかもしれない」

    という気持ちも出てきた。

    初めてやることばかりなのだから、最初から上手にできるはずなんてない。

    分からなければ聞けばいい。

    できなければ、何度でも練習すればいい。

    娘がミルクを飲む練習をしているように、

    私たちも、

    娘の親になる練習をしているのかもしれない。

    そう思った。

    産まれた瞬間に、私は突然、何でもできる「ママ」になったわけではなかった。

    娘が産まれてから、毎日病院へ通って、抱っこをして、泣いて、先生の説明を聞いて、看護師さんから教えてもらい、沐浴をしながら娘の温かさを自分の手で感じて、少しずつ娘の身体のことを知っていった。

    そして、その一つ一つを重ねながら、

    私は少しずつ、

    娘の母親になっていったのだと思う。

    毎晩、娘がいない家で泣いていた。

    「本当に私は産んだんだろうか」

    と思うほど、母親になった実感がなかった。

    でも今振り返ると、夫が休みの日に二人で車に乗って病院へ向かった時間も、夫が仕事の日に私が一人でミルクを持って片道90分の電車に乗った時間も、NICUで娘の顔を見ただけで涙が出た時間も、沐浴をしながら「ああ、私はこの子のママなんだ」と思えた時間も、全部、私が母親になっていく途中だったのだと思う。

    そして私は、少しずつ別のことも考えるようになった。

    「どうしてこの子が」

    ではなく、

    「この子だから、私たちのところに来たのかもしれない」

    と。

    病気のことも。

    呼吸のことも。

    ミルクのことも。

    内反足のことも。

    これから必要になるかもしれない治療や手術のことも。

    決して簡単ではない。

    これから先、もっと大変なことがあるのかもしれない。

    それでも、

    私たちのもとだから、この子は生きていける。

    そんなふうに思うようになった。

    何か特別な根拠があったわけではないし、自分たちなら何でもできるという自信があったわけでもなく、むしろ不安だらけだった。

    それでも、この子が私たちのところへ産まれてきてくれたことには、何か意味があるような気がした。

    だから、私たちが覚えればいい。

    できないなら練習すればいい。

    分からなければ教えてもらえばいい。

    怖くなったら、また一つずつ考えればいい。

    娘が少しずつ生きる力を身につけているように、私たちも少しずつ、この子と生きていく力を身につけていけばいい。

    「普通の家族」とは、どんな家族なんだろう。

    今でも、よく分からない。

    赤ちゃんと一緒に退院することなのか。

    母乳をあげることなのか。

    何の機器も使わずに育てることなのか。

    病院へ通わずに暮らすことなのか。

    たぶん、そんなことではない。

    私たちは、

    私たちのやり方で家族になっていけばいい。

    娘には娘のペースがあって、

    私たちには私たちの始まり方がある。

    それでいい。

    一か月間のNICU生活を終え、家の近くの大学病院へ移った娘を見ながら、私は少しずつ、そう思えるようになっていた。

    いとちゃん。

    あなたが産まれてから、私は何度も「普通」という言葉について考えた。

    でも今は、普通かどうかなんて、少しずつどうでもよくなってきた。

    あなたが今日も息をして、

    私たちがあなたに会えて、

    昨日できなかったことが一つできるようになって、

    また一緒に明日を迎えられる。

    それだけでいい。

    私たちはまだ、

    あなたと一緒に家へ帰るための途中にいる。

    でも、

    少しずつ近づいている。

    あなたが私たちの娘になるためではなく、

    私たちが、

    あなたのパパとママになっていくために。

    あの一か月は、

    きっと必要な時間だったのだと思う。

  • いとちゃんの物語 第二章 第十話

    あなたと歩いていく

    🌏Read in English

    手術が無事に終わり、次の日には退院することができたけれど、それで足の治療が終わったわけではなく、私たちにとっては、むしろここから新しい生活が始まったようなものだった。

    いとちゃんの小さな足は、手術のあと、硬いギプスですっぽりと覆われていた。

    まだ身体そのものが小さいからなのか、抱き上げるたびに、そのギプスだけがやけに大きく、重たそうに見えた。

    本人がどのくらい重さを感じているのかは分からなかったけれど、抱っこするときも、寝かせるときも、着替えをするときも、私たちはいつもギプスの位置を気にするようになり、どこかにぶつけないか、変な方向に力がかからないかと、今までとは違うところに神経を使うようになった。

    そして、ギプス生活で特に大変だったのが、お風呂だった。

    当然、ギプスを濡らすことはできない。

    だから家ではギプスを袋で覆い、水が入らないように気をつけながら上半身だけを洗っていた。

    赤ちゃんのお風呂といえば、身体ごとお湯の中に入れてあげるものだと思っていたけれど、それすら簡単にはできなかった。

    全身をきちんと洗えるのは、二週間に一度くらい。

    病院でギプスを外してもらったときに、沐浴のような形で全身を洗ってあげることができた。

    久しぶりに何もついていない足を見ると、

    「こんなに小さかったんだ」

    と思った。

    毎日見ていたはずの娘の足なのに、ギプスに覆われている時間が長くなると、その小さささえ忘れてしまいそうになっていた。

    そして何より、

    手術前まで強く内側を向いていた足が、真っ直ぐ前を向くようになっていた。

    ずっと見慣れていた足の形が変わっている。

    それは手術をしたのだから当然のことなのかもしれないけれど、実際に自分の目で見ると、やっぱり不思議だった。

    あの日、全身麻酔を怖がりながら手術室へ送り出し、無事に戻ってきてほしいと願い続けた時間が、この小さな足につながっているのだと思った。

    もちろん、そこで治療が終わるわけではなかった。

    ギプスを外したあとは、今度は装具を使う生活が始まった。

    初めて見たとき、

    「スノーボードみたい」

    と思った。

    硬い内反足用の靴が左右にあり、その靴を履かせたあと、左右のかかとの部分に一本の棒をカチッとはめる。

    両足が一本の棒でつながり、股関節が開いた状態になるような形をした装具だった。

    小さな赤ちゃんが使うものとしては、なかなか存在感があった。

    先生からは、二歳くらいまではこの装具を使っていくことになるだろうと聞いた。

    「二歳までか」

    その頃のいとちゃんは、まだ生まれて数ヶ月だった。

    二歳なんて、ものすごく先のことに感じた。

    これを毎日つけるのか。

    この状態で寝るのか。

    動きづらくないのかな。

    寝返りなんてできるのかな。

    そんなことを考えた。

    でも先生からは、装具をつけたままでも、赤ちゃんは少しずつ足を動かすようになり、中にはそのまま寝返りをする子もいると教えてもらった。

    「これをつけたまま?」

    最初は、本当にそんなことができるのだろうかと思った。

    左右の足が棒でつながっている。

    大人の感覚で考えれば、どう見ても動きにくそうだった。

    ところが、いとちゃんは私たちが思っていた以上に、その装具をつけた足をよく動かした。

    両足を一緒に持ち上げるようにしたり、身体をひねったり、装具の重さなんて気にしていないように動かしていた。

    私たちは、

    「そんなに動かせるんだ」

    と驚いた。

    また一つ、

    私たちの方が勝手に「できないかもしれない」と思っていた。

    装具をつけた生活には、もう一つ毎日の習慣が増えた。

    一日に三回ほど装具を外し、足のマッサージをする。

    先生から教えてもらった方法で、アキレス腱が硬くならないように、足をゆっくりと動かしながらマッサージをしていく。

    やり方そのものは教えてもらっていたけれど、最初の頃は、装具を外したり、もう一度つけたりするだけでもかなり時間がかかった。

    硬い靴に小さな足を入れ、位置を合わせ、左右のかかとに棒をカチッとはめる。

    合っているのか何度も確認する。

    締めすぎていないか。

    緩すぎないか。

    足の位置はこれでいいのか。

    病院では先生たちが簡単そうにやっていたことが、家に帰って自分たちでやってみると、全然簡単ではなかった。

    それでも、一日三回。

    装具を外して、小さな足に触れた。

    マッサージをしている時間は、

    私にとって、治療の時間であると同時に、

    娘の足をちゃんと見る時間にもなった。

    手術前は強く内側を向いていた足が、

    今は真っ直ぐ前を向いている。

    その足を手のひらに乗せて、先生から教えてもらった通りにゆっくり動かしていく。

    「柔らかくなれ」

    「このまま真っ直ぐでいてね」

    そんなことを心の中で思いながら、毎日触った。

    治療というものは、手術の日だけに行われるものではないのだと、この頃になってよく分かった。

    先生が手術をしてくれて、それで終わりではない。

    病院を出たあとも、家で装具をつけ、外し、マッサージをして、また装具をつける。

    その繰り返しも、全部治療の続きだった。

    そして、ある日。

    ギプスをつけていた頃には、ヒヤッとする出来事もあった。

    少し緩くなっているように見えたギプスが、そのまま外れてしまった。

    「え、取れた」

    一瞬、何が起きたのか分からなかった。

    あれだけの手術をして、せっかく真っ直ぐにした足を固定しているものが、こんなふうに外れてしまって大丈夫なのだろうか。

    足がまた元の向きに戻ってしまったらどうしよう。

    また手術になったらどうしよう。

    一つの出来事から、いつものように頭の中ではいくつもの悪い未来が一気に広がった。

    でも、そのときは考えている場合ではなく、私たちはすぐに病院へ向かった。

    予定された診察で病院へ向かうのと、「何か起きた」と思って病院へ向かうのとでは、同じ道なのにまったく違って感じる。

    大丈夫だろうかと思いながら何度も娘の足を確認し、とにかく早く病院へ着いてほしいと思った。

    妊娠中から、私たちの生活には何度も、

    「何かあったら病院へ」

    という場面があった。

    そのたびに不安にはなるけれど、何かが起きたときに診てもらえる場所があり、これまでのいとちゃんの身体を知ってくれている先生たちがいるということが、どれだけ心強いことなのかも、この頃には少しずつ分かるようになっていた。

    足の治療には、身体的な大変さだけではなく、実際に生活してみなければ分からなかった現実もあった。

    その一つが、お金だった。

    私たちの場合、申請することであとから戻ってくるお金もあったけれど、それですべての負担がなくなるわけではなかった。

    一度は自分たちで支払わなければならないものもあり、治療に関する支払いが一度に三十万円を超えることもあった。

    そして、いとちゃんが使う装具にも十三万円以上かかった。

    小さな赤ちゃんが使う一つの装具に、これだけのお金がかかる。

    そこに入院や手術、何度も続く通院が重なっていく。

    もちろん、

    「高いから、この治療はやめよう」

    という選択肢は私たちにはなかった。

    娘に必要なものなら、できることはしてあげたい。

    それは当たり前の気持ちだった。

    でも、

    「必要だから払う」

    ということと、

    「負担ではない」

    ということは、まったく違った。

    娘の身体のことを心配しながら、次の診察の予定を確認し、胃管からのミルクや吐き戻しを気にし、呼吸を見て、聞こえについてもこれから詳しく検査をしていかなければならない。

    その横で、治療にいくら必要なのか、何を申請するのか、どこまで戻ってくるのかという、現実的なことも同時に考えていかなければならなかった。

    病気のある子どもを育てるということは、心配したり、励ましたり、愛情を注いだりすることだけではない。

    病院へ行く時間も必要で、移動も必要で、治療や装具にはお金もかかり、申請のための手続きもある。

    娘のことを心配しているその横で、そういう現実的なことも一つずつやっていく。

    正直、大変だった。

    それでも家へ帰れば、そんな大人たちの事情とは関係なく、いとちゃんとの一日はいつも通り始まった。

    時間になればミルクを飲ませ、吐き戻せば拭き、胃管を確認し、呼吸が荒く見えれば様子を見て、装具を外す時間になれば足をマッサージし、また硬い靴を履かせて棒をカチッとはめる。

    そんな毎日の中で、

    ある日、

    いとちゃんが身体をひねった。

    最初は、何をしようとしているのか分からなかった。

    身体を横へ向けて、

    足を動かして、

    もう一度身体をひねる。

    「え?」

    と思って見ていると、

    そのまま、

    くるん、と身体がひっくり返った。

    寝返りだった。

    まだ、首も完全には座っていない頃だった。

    生後四ヶ月頃。

    いとちゃんは、

    寝返りをした。

    「寝返りした!」

    信じられなくて、ものすごく嬉しかった。

    装具をつけたままでも寝返りをする子はいると先生から聞いていた。

    でも、それはあくまで「そういう子もいる」という話であって、目の前のいとちゃんが本当にするところを、それまでの私は想像できていなかったのだと思う。

    しかも、まだ首が座る前だった。

    身体にはいろいろな治療が必要で、

    足には装具がついている。

    それでも、

    いとちゃんの身体は、

    ちゃんと自分で次の動きを見つけていた。

    妊娠中から私は、

    この子は何ができるのだろう、

    何ができないのだろう、

    ということばかり考えてきた。

    歩けるのだろうか。

    立てるのだろうか。

    身体を自由に動かせるのだろうか。

    でも、私がそんなずっと先のことを心配している間にも、

    いとちゃんは自分の身体を使って、

    一つずつ、

    私たちの知らなかったことを見せてくれた。

    寝返りをしただけ。

    そう言ってしまえば、

    それだけなのかもしれない。

    でも私にとっては、

    ただの寝返りではなかった。

    「この子は、自分で動いていくんだ」

    そう思った。

    病気の説明を聞いて、

    できないかもしれない未来を想像していた私の目の前で、

    いとちゃんは何も言わず、

    自分の身体をくるんとひっくり返した。

    それが、たまらなく嬉しかった。

    第一章の頃の私は、

    未来のことばかり考えていた。

    この子はどんな姿で産まれてくるのだろう。

    ちゃんと呼吸できるのだろうか。

    どんな病気なのだろう。

    歩けるのだろうか。

    聞こえるのだろうか。

    普通の生活ができるのだろうか。

    答えのない問いを、何度も何度も頭の中で繰り返して、

    「産まれたら分かる」

    と思っていた。

    でも、

    産まれても分からないことはたくさんあった。

    NICUで先生から説明を受けても、まだ分からなかった。

    家に帰っても、まだ分からなかった。

    初めての手術を終えても、

    やっぱり分からないことはたくさん残っている。

    聞こえについても、これから詳しく検査をしていく。

    口蓋裂のこともある。

    胃管がいつまで必要なのかも分からない。

    足の治療も、まだまだ続いていく。

    でも、この頃になってようやく、

    全部分からなくてもいいのかもしれない、

    と思えるようになっていた。

    未来が分からないことと、

    未来がないことは、

    まったく違う。

    分からないなら、

    その日が来たときに考えればいい。

    検査が必要になったら検査をして、治療が必要になったら先生と相談して、困ったことが起きたら、そのときできることを探せばいい。

    そうやって私たちが未来を心配している間にも、

    いとちゃんは少しずつ大きくなっていく。

    目で人を追うようになった。

    声を出すようになった。

    物をつかむようになった。

    表情も増えた。

    そして、

    首が座るよりも先に、

    寝返りをした。

    病気の説明を聞いた日に私が想像していた未来の中には、

    こんないとちゃんはいなかった。

    私は、

    「できないかもしれないこと」

    ばかりを想像していたから。

    でも実際のいとちゃんは、

    私の想像なんて関係ないように、

    今日できることを一つずつ増やしていた。

    もしかしたら、

    私たちだけが、

    少しずついとちゃんに追いついていっているのかもしれない。

    いとちゃん。

    あなたが産まれてから、

    まだほんの数ヶ月しか経っていない。

    それなのに、

    私たちには何年も一緒にいるような気がするくらい、

    たくさんのことがあった。

    NICU。

    初めての抱っこ。

    病気の説明。

    毎日の面会。

    胃管からのミルク。

    初めて三人で帰った家。

    吐き戻し。

    荒く見える呼吸。

    聞こえへの心配。

    少しずつ増えていった笑顔。

    初めての手術。

    大きなギプス。

    そして、

    その先に始まった装具との生活。

    一つひとつの出来事の中で、

    私は何度も未来を怖がった。

    でも、そのたびにあなたは、

    私が心配していた未来ではなく、

    目の前の今日を生きていた。

    だから私も、

    少しずつあなたと同じように、

    今日を見ることができるようになったのかもしれない。

    これから先、

    どんなことが待っているのかは、

    まだ分からない。

    歩けるようになる日がいつなのかも、

    聞こえについてどんな結果が出るのかも、

    胃管がいつ外れるのかも、

    これからどんな治療が必要になるのかも、

    今の私たちにはまだ分からない。

    でも、

    一つだけ分かっていることがある。

    どんな未来になっても、

    私たちはあなたと一緒に進んでいく。

    早くなくていい。

    誰かと同じじゃなくていい。

    立ち止まる日があってもいい。

    あなたがあなたのペースで成長していくように、

    私たちも私たちのペースで、

    あなたのパパとママになっていけばいい。

    いとちゃん。

    あなたの小さな足は、

    初めての大きな手術を乗り越えた。

    そして今、

    その足を一生懸命動かしながら、

    あなたはもう、

    自分の力で次の景色へ進もうとしている。

    その足でいつかどんな景色を見るのか、

    今はまだ分からない。

    だから、

    急いで答えを探さなくてもいい。

    これから一緒に、

    見に行こう。

    あなたのペースで。

    私たちのペースで。

    一歩ずつ。

    あなたと歩いていこう。

    ―― 第二章 完 ――

  • いとちゃんの物語 第二章 第九話

    小さな足の、大きな手術

    🌏Read in English

    いとちゃんが生まれたときから、ずっと気になっていたものの一つが、左右とも強く内側を向いていた小さな足だった。

    「内反足」

    生まれてすぐに治療が必要だと言われ、診察を受けながらこれからどのように治療していくのかを聞いてきたけれど、まだ先のことのように感じていた「手術」という言葉が、少しずつ私たちの目の前にある現実になっていった。

    そして、生後3ヶ月を過ぎた頃、いとちゃんは初めての手術を受けることになった。

    アキレス腱を切って足の向きを矯正し、その状態をギプスで固定していく手術で、この先いとちゃんが自分の足を使っていくために必要な治療なのだと説明を受けていた。

    何のためにする手術なのかは理解できたし、必要なことなら受けるしかないという気持ちもあったけれど、私が何より怖かったのは、足の手術そのものよりも、

    「全身麻酔です」

    という言葉だった。

    手術の説明と一緒に麻酔についても説明を受け、その中で、全身麻酔である以上、万が一のことが起こる可能性はあるという話もされた。

    もちろん、それは必要な説明だったのだと思うし、どんな手術にも絶対というものはないことくらい頭では分かっていた。

    それでも、

    「万が一」

    という言葉を、自分の娘について聞くのはまったく違った。

    まだ生まれて数ヶ月しか経っていない、抱き上げれば簡単に腕の中に収まってしまうほど小さな娘に全身麻酔をかけ、私たちの見えないところで手術をする。

    必要な治療なのだから大丈夫だと思おうとしても、そのたびに頭の中には「もしも麻酔で何かあったら」「もし手術中に何かあったら」「もし目を覚まさなかったら」という、考えたくもない未来が浮かんできた。

    これまでにも、いとちゃんのことで何度も「大丈夫かな」と思ってきた。

    妊娠中に病気の可能性を聞いたときも、産まれてすぐNICUへ行ったときも、呼吸が苦しそうに見えたときも、聞こえが少し悪いと言われたときも、何度も不安になってきた。

    でも、手術の日に感じた怖さは、それまでとは少し違っていた。

    目の前にいる娘を自分の手から離して、この先は先生たちにすべてを託さなければならず、母親である私にできることが何一つないということが、こんなにも怖いものなのだと初めて知った。

    手術室へ向かういとちゃんを見送りながら、

    「頑張ってね」

    と思った。

    でも、本当は頑張ってほしいわけではなかった。

    頑張らなくてもいいから、ただ無事に戻ってきてほしかった。

    もう一度、いつもの顔を見せてほしかった。

    扉の向こうへいとちゃんが行ってしまうと、私にできることは、本当にただ待つことだけになった。

    何度時計を見ても時間が進んでいるような気がせず、何か別のことを考えようとしても、頭の中には「今、麻酔は大丈夫だろうか」「手術は順調なのだろうか」「ちゃんと戻ってくるよね」という答えの出ないことばかりが浮かんできた。

    自分が代わってあげることもできない。

    様子を見ることもできない。

    声をかけることさえできない。

    ただ待つということが、こんなにも長く、怖い時間になるとは思わなかった。

    そして、しばらくして手術が無事に終わったことを知らされた。

    その言葉を聞いた瞬間、それまで身体の中に入っていた力が一気に抜けて、

    「よかった」

    と思った。

    終わった。

    無事だった。

    ちゃんと戻ってきてくれる。

    手術前からずっと頭の中にあった「もしも」がようやく消えて、やっと息を吐くことができたような気がした。

    ところが、その直後だった。

    「お母さんだけ、こちらへお願いします」

    私だけが呼ばれた。

    その言葉を聞いた瞬間、さっきまで安心していたはずなのに、心臓が止まりそうになった。

    手術は無事に終わったと聞いた。

    それなのに、どうして私だけ呼ばれるのだろう。

    「なんかあったのか……」

    手術中に何かあったのか、麻酔からちゃんと目を覚ましていないのか、呼吸なのか、心臓なのか、それとも何か別の問題が見つかったのか。

    呼ばれた場所へ向かうほんの短い時間の中で、考えたくもないことが次々と頭の中に浮かび、先生の顔を見るまでのわずかな時間が、とても長く感じた。

    そこで先生から聞いたのは、私が想像していたような話ではなかった。

    「麻酔を入れるのに、かなり手こずりました」

    手術そのものは無事に終わっていたけれど、いとちゃんの場合、麻酔を入れるまでにかなり苦労したのだという。

    そして、今後また手術などで全身麻酔が必要になる場合には、今回のことを把握しているこちらの病院で受けた方がいいと思います、という話をされた。

    それを聞いた瞬間、まず私の中に出てきたのは、

    「よかった」

    という気持ちだった。

    もちろん、何もなかったわけではない。

    麻酔を入れることが難しかったという事実は、この先また手術を受ける可能性があるいとちゃんにとって、とても大切なことだった。

    それでもその瞬間の私は、何か取り返しのつかないことが起きたわけではなく、いとちゃんが無事に手術を終えて、ちゃんと私のところへ戻ってきてくれるということに、ただ安心した。

    しかし少し時間が経つと、

    「麻酔を入れるのに、かなり手こずった」

    という先生の言葉が、今度は新しい不安として心の中に残った。

    これから先、いとちゃんにはまた手術が必要になるかもしれないし、口蓋裂の手術も待っている。

    そのたびに、また全身麻酔と向き合うことになるのかもしれない。

    今回の手術が終われば一つ心配が減るような気がしていたけれど、実際には一つの治療が終わるたびに、そこからまた新しく考えなければならないことが出てくるのだと、このときも思った。

    それでも、そのときは先のことよりも、ただ早くいとちゃんに会いたかった。

    ようやく手術を終えたいとちゃんのところへ行くと、小さな身体はたくさんの機器につながれ、身体からはいくつもの線が伸び、手術を終えた足には硬いギプスが巻かれていた。

    その姿は、やっぱり痛々しかった。

    まだ生まれて数ヶ月しか経っていないのに、全身麻酔を受け、私たちの見えないところで手術を受け、目を覚ましたら身体にはいくつもの機器がつながり、足にはギプスが巻かれている。

    いとちゃん自身には、何のためにこれをしているのかも分からなかったと思う。

    「頑張ったね」

    そう声をかけながら、私は機器でも、線でも、ギプスでもなく、その向こうにある娘の顔を何度も見た。

    ちゃんといる。

    ここにいる。

    手術前と同じように、私の目の前にいとちゃんがいる。

    それを確認するように顔を見ていると、手術が無事に終わったという言葉を聞いたときよりも、ようやく娘が帰ってきたのだと実感できたような気がした。

    そして、私たちがあれほど心配していたのとは反対に、術後の経過は順調だった。

    大きな問題もなく、次の日には退院できることになった。

    昨日まで全身麻酔の「万が一」を考え、手術中はただ無事に戻ってきてほしいと願い、手術が終わった直後には突然私だけ呼ばれて何かあったのだと思った娘を、次の日にはまた自分の腕に抱いて、一緒に家へ帰ることができる。

    病院を出るときになって、

    「終わったんだ」

    と、ようやく少しだけ実感した。

    もちろん、本当の意味で治療が終わったわけではなかった。

    ここからはギプスをつけた生活が始まり、足の矯正は続いていくし、その先には装具も待っている。

    病院にもまだ何度も通うことになるし、これから先、別の手術が必要になる可能性だってある。

    それでも、この日はそれでよかった。

    全部の未来を一度に乗り越える必要はない。

    今日、一つ乗り越えた。

    今は、それだけで十分だった。

    いとちゃん。

    あなたの小さな足を見ながら、私はこれまで何度も、歩けるのかな、どんなふうに立つのかな、いつか走ることはできるのかなと、ずっと先の未来のことばかり考えてきた。

    でも手術の日、私が願っていたことは、そんな未来のことではなかった。

    ただ、無事に帰ってきてほしい。

    もう一度、あなたの顔を見たい。

    それだけだった。

    そしてあなたは、小さな身体で初めての大きな手術を乗り越えて、ちゃんと私たちのところへ戻ってきてくれた。

    足には大きなギプスがついていて、その先にどんな治療が待っているのかも、どんなふうに成長していくのかも、まだ分からない。

    だから今は、歩けるかどうかも、走れるかどうかも、ずっと先の未来まで考えなくていい。

    まずは今日を一つ乗り越えたことを喜んで、

    また一緒に家へ帰ろう。

    術後のいとちゃん

  • いとちゃんの物語 第二章 第八話

    あなたの周りには、たくさんの人がいる

    🌍Read in English

    家に帰ってからのいとちゃんは、昨日と今日を比べただけでは分からないくらいの小さな変化を毎日のように積み重ねながら、いとちゃんなりのペースで少しずつ大きくなっていった。

    体重も身長も急に増えるわけではなかったけれど、病院で測るたびに少しずつ数字は増えていて、毎日一緒に過ごしている私たちには、数字には表れない変化も少しずつ分かるようになっていた。

    じっとこちらを見ていることの多かった目は、いつの間にか私たちの動きを追うようになり、顔を近づけて左右に動いてみると、その小さな目がゆっくりとついてくるようになった。

    「あ、見てる」

    それだけのことが嬉しくて、私たちは何度も同じことをして、そのたびに本当に目で追ってくれているのかを確かめるように喜んだ。

    表情も少しずつ豊かになり、眠っているか、泣いているか、じっとこちらを見ていることが多かった頃から、口元を緩めたり、こちらの顔を見ながら笑ったような表情をしたりと、昨日までは知らなかったいとちゃんの顔が少しずつ増えていった。

    声も出すようになり、小さな身体から「あー」「うー」と聞こえるたびに、まだ何かを伝えようとしているのかも分からないのに、

    「今、喋ったね」

    と夫と喜んだ。

    もちろん、まだ喋っているわけではないのだけれど、自分の娘が自分の声を使って何かを発しているということが、それだけで嬉しかった。

    手も少しずつ動くようになり、目の前にあるものへ手を伸ばして、小さな指で物をつかむ姿も見られるようになった。

    赤ちゃんの成長として見れば、どれも珍しいことではないのかもしれない。

    それでも妊娠中から、「歩けるのだろうか」「聞こえるのだろうか」「ちゃんと見えるのだろうか」と、まだ起きてもいない未来の「できないかもしれないこと」を何度も考えてきた私にとって、目の前で増えていく「できた」は、どれも当たり前には思えなかった。

    目で追ったこと。

    声を出したこと。

    物をつかんだこと。

    今まで見たことのない表情をしたこと。

    一つひとつは小さな変化だったけれど、それを見つけるたびに、

    「また一つ増えたね」

    と思った。

    身体がこれからどんなふうに成長していくのかはまだ分からなかったけれど、それでも、いとちゃんは誰かと同じ速さではなくても、いとちゃんのペースでちゃんと前へ進んでいるのだと思える瞬間が増えていった。

    ただ、そんな成長を喜べるようになっても、心配なことがなくなったわけではなかった。

    吐き戻しは相変わらずで、ミルクを飲ませれば必ずと言っていいほど吐いていたし、呼吸もまだ荒く見えることがあり、眠っている娘の胸が大きく上下しているだけで気になって、しばらくその動きを見つめてしまうこともあった。

    そして、この頃もう一つ気になっていたのが、「聞こえ」のことだった。

    病院では、いとちゃんは少し聞こえが悪く、特に右耳の聞こえがよくないと言われていて、これからさらに詳しい検査をしていく必要があるという説明を受けていた。

    妊娠中から耳にも症状が出る可能性があるとは聞いていたけれど、それが実際に娘のこととして目の前に現れると、やはり不安になった。

    家でも声をかけたときの反応が少し弱いように感じることがあり、名前を呼んでこちらを向けば「聞こえてる」と安心するのに、反応がなければ「やっぱり聞こえにくいのかな」と心配になり、何度も音を出したり、左右から声をかけたりして確かめたくなった。

    右耳はどのくらい聞こえているのだろう。

    左耳は大丈夫なのだろうか。

    これから言葉を覚えるようになったとき、何か影響があるのだろうか。

    一つ気になることが見つかると、私はすぐにその先の未来まで考えてしまった。

    産まれる前は、ずっと「産まれてみなければ分からない」と言われていたから、どこかで産まれた瞬間にいろいろなことが分かるような気がしていた。

    でも実際には、産まれたあともすべての答えが一度に分かるわけではなく、身体が成長してから分かることもあれば、検査を重ねて初めて分かることもあり、時間が経たなければ分からないこともたくさんあった。

    「まだ分からない」

    その言葉は相変わらず怖かったけれど、いとちゃんと暮らしていく中で、私たちは少しずつ、その言葉と一緒に生活することにも慣れ始めていたのだと思う。

    足の治療も続いていた。

    生まれたときから強く内側を向いていた両足は、これから先も治療を続けていく必要があり、少しずつ次の治療についての話も出るようになっていた。

    鼻には胃管がある。

    足には治療が必要。

    呼吸も気になる。

    聞こえについても、これから詳しく調べていかなければならない。

    私はいつの間にか、いとちゃんを見るときに、娘自身だけではなく、そうした一つひとつの心配事まで一緒に見てしまう癖がついていたのだと思う。

    もちろん、娘は可愛かった。

    それでも心のどこかには、

    「他の人には、どう見えるんだろう」

    という気持ちがずっと残っていた。

    そんな頃、いとちゃんは少しずつ親戚にも会えるようになり、家族以外の人に抱っこしてもらう機会も増えていった。

    最初の私は、胃管を見たらどう思うだろう、足を見たら何か聞かれるだろうか、病気のことをどこまで説明したらいいのだろうと、誰かに会わせる前からいろいろなことを考えていた。

    ところが、実際に会ってみると、私が想像していたような空気にはならなかった。

    「可愛いね」

    そう言いながら、みんな普通にいとちゃんを抱っこして、顔を覗き込み、少し表情が変われば「今、笑ったね」と喜び、「パパに似てるね」「ここはママかな」と、どこにでもありそうな会話をしていた。

    胃管がついていることよりも、いとちゃんの目を見ていた。

    足のことよりも、いとちゃんの表情を見ていた。

    私にとっては毎日気になって仕方がなかった胃管も、これから治療が続いていく足も、病気のことも、周りの人たちにとっては、最初からいとちゃんのすべてではなかったのかもしれない。

    目の前に赤ちゃんがいて、抱っこしたら小さくて、顔を見たら可愛くて、声を出したらみんなで笑う。

    周りの人たちは、ただそのままのいとちゃんを見ていた。

    そんな光景を何度か見ているうちに、

    「もしかしたら、一番気にしているのは私なのかもしれない」

    と思うようになった。

    胃管がついていることも、足の形も、人と少し違うことも、周りからどう見られるのかということも、誰かに何かを言われたから怖くなっていたのではなく、私は誰かに言われるよりもずっと前から、自分で先回りして心配していたのかもしれない。

    そう思えたとき、不思議なくらい少しだけ気持ちが楽になった。

    もちろん、これから先、いとちゃんが成長していけば、もっとたくさんの人に出会うことになるし、そのすべての人が同じように受け止めてくれるとは限らない。

    病気について聞かれることもあるだろうし、見た目について何かを思われることもあるかもしれない。

    それでも、まだ起きてもいない未来の誰かの目を気にして、今、目の前にいる娘との時間まで不安でいっぱいにする必要はないのかもしれないと思えるようになった。

    今のいとちゃんの周りには、夫がいて、家族がいて、親戚がいて、病院には先生や看護師さんたちがいて、抱っこしてくれる人も、笑いかけてくれる人も、小さな変化を一緒に喜んでくれる人もいる。

    私が思っていたよりずっと、いとちゃんの周りにはたくさんの味方がいて、そのことが私にとっても、とても心強かった。

    そして何より、いとちゃん本人は、私がそんなことを考えているのも知らないように、目で人を追い、声を出し、物をつかみ、少しずつ表情を増やしながら、体重も身長もいとちゃんなりのペースで増えていった。

    私はずっと、

    「この子を守らなければ」

    と思っていた。

    もちろん、その気持ちはこれからも変わらないと思う。

    でも、もしかしたら、私たちだけですべてを背負って守ろうとしなくてもいいのかもしれない。

    この子には、もうたくさんの人がいる。

    そしてその人たちは、胃管の向こうにいるいとちゃんを、治療が必要な足の向こうにいるいとちゃんを、ちゃんと一人の女の子として見てくれている。

    それに気づけたことは、私にとって、とても大きかった。

    いとちゃん。

    あなたはまだ、自分の周りにどれだけたくさんの人がいるのか、きっと知らない。

    あなたが少し笑うだけで一緒に笑ってくれる人がいて、声を出すだけで「今、喋ったね」と喜んでくれる人がいて、何かをつかむだけで「できたね」と嬉しくなってくれる人がいる。

    あなたが頑張って成長していることを、自分のことのように喜んでくれる人がいる。

    これから先、あなたの身体にはまだいくつもの治療や検査が待っていて、聞こえについてもまだ分からないことがあり、そして小さな足にも、次の大きな治療が近づいていた。

    私には、まだ怖さがあったし、きっとこれからも何度も怖くなるのだと思う。

    それでも、もう一人ではない。

    私も。

    あなたも。

    いとちゃん。

    あなたの周りには、たくさんの人がいる。

    そしてその真ん中であなたは今日も、たくさんの人に見守られながら、あなたのペースで少しずつ大きくなっている。

  • いとちゃんの物語 第二章 第七話

    いとちゃんは、いとちゃん

    🌏Read in English

    家に帰ってからの生活は、病院にいた頃とはまったく違う忙しさがあったけれど、夫が家にいるときはお風呂に入れてくれたり、ミルクをあげてくれたりして、私たちは少しずつ二人で娘を育てる生活に慣れていった。

    ただ、夜だけは少し違った。

    夜中に娘が泣いても、夫は本当に起きなかった。

    隣で泣いているのに、どうしてそんなにぐっすり眠れるんだろうと思うくらい起きなくて、今振り返れば笑ってしまうけれど、幸い、いとちゃん自身がほとんど夜泣きをしない子だったので、それにはずいぶん助けられた。

    夫は、妊娠中からあまり変わらなかった。

    私がまだ起きてもいない未来のことまで考えて不安になっている横で、夫はいつも、今、目の前で起きていることに対して一つずつ対応していく人だった。

    妊娠中、そんな夫の態度を見て、

    「どうしてそんなに冷静でいられるの」

    と思ったこともあった。

    私だけが怖がっているような気がして、その温度差が寂しく感じられたこともあった。

    でも娘が産まれ、実際にいろいろなことが起きるようになっても、夫はやっぱり変わらなかった。

    呼吸が気になれば、そのときにどうすればいいのかを考える。

    ミルクを吐けば、まず娘の様子を見る。

    病院へ行かなければならなければ、病院へ行く。

    まだ起きていないことを想像して答えを探し続けるのではなく、目の前に一つ問題が現れたら、その一つに向き合う。

    夫はずっと、そんなふうに娘と向き合っていた。

    私は、そう簡単にはできなかった。

    家に帰ることができても、毎日一緒に過ごせるようになっても、

    「いとちゃんは、これからどうなるんだろう」

    という不安がなくなることはなかった。

    呼吸が苦しそうに見えるたびに怖くなったし、あまりにも何度も吐き戻す姿を見ていると、本当に大丈夫なのだろうかと心配になった。

    病院から帰ってきたのだから、もう安心。

    そんなふうに気持ちが切り替わるわけではなかった。

    むしろ娘がいつも目の前にいるようになったからこそ、小さな呼吸も、表情の変化も、吐き戻しの回数も、全部が気になった。

    そして、そんな日々の中で何度も、

    「なんで自分なんだろう」

    と思った。

    どうして私たちだったんだろう。

    どうしてこの子だったんだろう。

    妊娠中から何度も考えてきた問いを、娘が産まれたあとも、私は完全に手放すことができなかった。

    娘のことが大切ではないから、そう思うわけではない。

    むしろ、大切だからこそ、考えてしまった。

    これからどんな治療が待っているのだろう。

    この子はどんなふうに成長していくのだろう。

    歩けるのだろうか。

    目や耳は大丈夫なのだろうか。

    呼吸はこれからどうなるのだろう。

    病気のことを知れば知るほど、まだ起きてもいない未来が頭の中に増えていき、その未来を一つずつ想像しては、自分で怖くなっていた。

    そんな私には、もう一つ、できなかったことがあった。

    友達に、娘が産まれたことを報告することだった。

    普通なら、

    「産まれました」

    と写真を送って、名前を伝えて、たくさんの「おめでとう」を受け取るのかもしれない。

    でも私は、それができなかった。

    何をどう説明したらいいのか分からなかったのだと思う。

    娘が産まれたことは、もちろん嬉しかった。

    産まれてきてくれたことが、本当に嬉しかった。

    それなのに、その後に続く言葉を私は見つけられなかった。

    病気のことをどこまで話せばいいのだろう。

    相手はどう思うだろう。

    どんな言葉が返ってくるのだろう。

    「おめでとう」と言われたら、私はどんな気持ちになるのだろう。

    そんなことを考えているうちに、報告できないまま時間だけが過ぎていった。

    今なら、それも当時の私なりの精一杯だったのだと思う。

    娘のことを隠したかったわけではない。

    ただ、私自身がまだ、起きたことのすべてを受け止めきれていなかった。

    夫とは、

    「三人で成長していこう」

    と話したことがあった。

    娘だけが成長していくのではなく、私たちも一緒に成長していこう。

    今分からないことは、これから知っていけばいい。

    できないことがあれば、そのとき考えればいい。

    そう話していても、翌日になればまた不安になることはあったし、その言葉一つですべてを前向きに考えられるようになったわけではなかった。

    でも、少なくとも、

    「この子をどうにかしなければ」

    ではなく、

    「この子と一緒に進んでいこう」

    と思える瞬間は、少しずつ増えていった。

    そして、そんな私たちを最初から変わらず見てくれていたのが、夫の両親だった。

    二人は、娘の病気を知っても、最初から悲観することがなかった。

    特別にかわいそうな子を見るような目でもなく、何か大変なものを抱えた家族を見るような目でもなかった。

    何度も言ってくれた。

    「いとちゃんは、いとちゃんだから」

    いとちゃんは、いとちゃん。

    それ以上でも、以下でもない。

    病名がついていても。

    胃管が入っていても。

    足に治療が必要でも。

    これから手術が待っていたとしても。

    その前に、この子はいとちゃんなんだ。

    その言葉を聞くたびに、私は自分がどれだけ娘の未来ばかりを見ていたのかに気づかされた。

    目の前には、ちゃんと娘がいるのに。

    娘はまだ小さく、自分の意思を言葉や仕草ではっきり伝えられる時期ではなかったけれど、少しずつ表情が豊かになっていった。

    じーっと人の顔を見ていた娘が、ときどき笑ったような顔をするようになった。

    それが本当に私たちを見て笑っていたのか、その頃の私には分からなかった。

    でも、その顔を見ると、

    「このままでいいのかもしれない」

    と思えた。

    病気がなくなったわけではない。

    不安が消えたわけでもない。

    未来の答えが見つかったわけでもない。

    それでも、その一瞬だけは、

    「この子は、この子のままでいい」

    と思うことができた。

    そして、その「一瞬」が少しずつ増えていった。

    娘が笑ったような顔をすれば嬉しかった。

    昨日とは少し違う表情を見せれば、それだけで夫婦で喜んだ。

    少しずつ表情が増え、少しずつ私たちに見せてくれる顔が増えていく。

    その変化を見ている時間が、私はとても好きだった。

    もちろん、心配なこともたくさんあった。

    特に、呼吸が苦しそうに見えるときは怖かったし、あまりにも吐き戻しが多いと、

    「こんなに吐いて大丈夫なのかな」

    と何度も不安になった。

    嬉しいことと、不安なことは、交互にやってくるわけではなかった。

    同時にそこにあった。

    娘の笑顔を見て嬉しいと思いながら、その呼吸が少し気になる。

    昨日より表情が増えたことを喜びながら、またミルクを吐けば心配になる。

    「この子は大丈夫」と思える日があったかと思えば、次の日には「この先どうなるんだろう」と考えてしまう。

    子どもの病気を受け入れるということは、ある日突然すべての不安が消えて、

    「もう大丈夫」

    と思えることではないのかもしれない。

    少なくとも、私にとってはそうではなかった。

    前を向ける日もあれば、なんで自分なんだろうと思う日もある。

    娘を見て、このままでいいと思える瞬間もあれば、将来を想像して怖くなる夜もある。

    そのどちらも、当時の私だった。

    それでも毎日は進んでいった。

    三時間おきにミルクの時間が来て、お風呂に入れて、吐いたら拭いて、眠っている顔を眺めて、病院へ行き、また家へ帰ってくる。

    夫は相変わらず目の前のことに一つずつ向き合い、私は相変わらず少し先の未来まで考えて不安になり、その間で娘は、そんな私たちのことなど知らないように少しずつ表情を増やしていった。

    私たち三人は、それぞれ違う速度で成長していたのだと思う。

    いとちゃんが身体を使って少しずつ成長していくように、私たちもまた、親として少しずつ成長していた。

    今、あの頃の自分に何か一つだけ言葉をかけられるとしたら、私はきっと、

    「大丈夫だよ」

    と言うと思う。

    何も起きないから大丈夫、という意味ではない。

    これから先、心配することがなくなるからでもない。

    病院に行かなくてよくなるわけでも、治療が全部終わるわけでもない。

    それでも、

    「ちゃんと頑張って成長してるから、大丈夫だよ」

    と伝えたい。

    あの頃の私は、まだ起きていない未来の中に答えを探していた。

    でも、本当に見なければならなかったのは、未来のいとちゃんではなく、その日、その瞬間を一生懸命生きている目の前のいとちゃんだったのかもしれない。

    できることが一つ増える。

    表情が一つ増える。

    昨日とは少し違う顔で、今日も私たちをじっと見ている。

    それでよかった。

    全部を受け入れられなくてもよかった。

    不安がなくならなくてもよかった。

    「なんで自分なんだろう」と思う日があってもよかった。

    その気持ちを抱えたままでも、私はちゃんと娘を抱いていた。

    夫も、隣にいた。

    そして娘は、ちゃんと成長していた。

    いとちゃんは、いとちゃん。

    それ以上でも、以下でもない。

    あの頃、何度も聞いたその言葉の意味を、私は毎日の中で少しずつ知っていったのだと思う。

    いとちゃん。

    あの頃の私は、あなたの未来を心配してばかりいたけれど、

    あなたはそんな私の目の前で、

    ちゃんと今日を生きて、

    ちゃんと昨日より少しだけ成長していた。

    だから、あの頃の私にもう一度伝えたい。

    大丈夫だよ。

    この子は、この子の速度で、

    ちゃんと頑張って成長してるから。

  • いとちゃんの物語 第二章 第六話

    あなたがいる毎日

    🌏Read in English

    病院の扉を出て、初めて娘を抱いたまま外の空気に触れたとき、私はようやく、これから私たち三人の生活が本当に始まるのだという実感を持つことができた。

    もちろん、不安がなかったわけではない。

    病院にいれば、何かあったときには先生がいて、看護師さんがいて、分からないことがあればすぐに聞くことができたけれど、これからは娘のすぐそばにいるのは私たちで、ミルクをあげるのも、胃管を変えるのも、娘の小さな変化に気づくのも、すべて自分たちでやっていかなければならない。

    それでも、その不安よりずっと大きかったのは、

    「今日から一緒に眠れるんだ」

    という嬉しさだった。

    これまでは、どれだけ長く病院にいても、帰る時間になれば娘を残して私たちだけが帰らなければならなかった。

    夜になれば娘は病院にいて、私は娘のいない場所で眠り、朝になればまた会いに行く。

    でも、もう違う。

    今日からは、夜になっても娘がいる。

    朝になって目を覚ましても、娘がいる。

    当たり前のように聞こえるそんなことが、私にはたまらなく嬉しかった。

    初めて三人で過ごす夜は、嬉しい反面、少し緊張していた。

    看護師さんからは、

    「夜はよく寝ていますよ」

    と聞いていたけれど、本当に家でも寝てくれるのだろうかと心配していて、病院とは環境も違うし、もしかしたらずっと泣いて眠れない夜になるのではないかとも思っていた。

    けれど、そんな私の心配をよそに、娘は本当にスヤスヤと眠っていた。

    小さな身体で、静かに眠っている。

    ただそれだけの姿なのに、ずっと見ていられるような気がした。

    病院では機械の音や人の気配がいつも近くにあったけれど、家の中で聞こえる娘の寝息は、それまでとはまったく違っていて、その小さな寝顔を見ながら、

    「ああ、本当に家にいるんだ」

    と何度も思った。

    ありがたいことに、いとちゃんはほとんど夜泣きをしない子だった。

    だから夜中に私たちを起こしたのは、娘の泣き声ではなく、携帯のアラームだった。

    最初の頃、ミルクは三時間おき。

    娘自身がお腹を空かせて泣くことがほとんどなかったから、夜中もアラームを設定して、音が鳴れば眠い目をこすりながら起き、ミルクを準備して、胃管からゆっくりと入れていった。

    深夜でも、早朝でも、三時間経てば次のミルクの時間がやってくる。

    娘はその横でスヤスヤ眠っているのに、私たちはアラームで起きて、

    「ミルクの時間だ」

    と準備を始める。

    今振り返ると少し不思議な光景だけれど、それが私たち三人にとっての新しい日常だった。

    病院であれほど怖かった胃管も、家に帰れば特別な医療行為というより、少しずつ生活の中にあるものへと変わっていった。

    お風呂に入れるときも、胃管が抜けたり引っかかったりしないように気をつけながら、小さな身体を支えて洗っていく。

    病院で初めて沐浴をした頃には、「私はこの子のママなんだ」と感じるための特別な時間だったけれど、家に帰ってからは、それが毎日の生活の一部になっていった。

    そして、家に帰ってから想像以上に大変だったのが、吐き戻しだった。

    いとちゃんは、本当によく吐いた。

    ミルクを入れて安心したと思ったら吐いてしまうこともあり、着替えたり、拭いたり、また様子を見たりすることが何度もあった。

    あまりにもよく吐くものだから、外へ出るようになってからは、私たちの荷物の中に必ず箱ティッシュが入るようになった。

    ポケットティッシュではない。

    箱ティッシュ。

    今思えば少し笑ってしまうけれど、当時はそれくらい、

    「どうせ今日も吐くから」

    という前提で出かけていた。

    病気のことや胃管のこと、これからの治療のことを考えると、どうしても重たい気持ちになる日はあったけれど、そんな毎日の中には、こうして今なら笑って話せるような出来事も少しずつ増えていった。

    そして、家へ帰ったことで変わったのは、私たち三人の生活だけではなかった。

    私の家族や親戚も、たくさん娘を抱っこしてくれた。

    病院にいる間は、どうしても娘と関わることのできる人は限られていたけれど、家に帰ってからは、いろいろな人の腕の中に娘がいて、みんながその小さな顔を覗き込み、声をかけ、笑ってくれた。

    娘が誰かに抱っこされている姿を見ていると、

    「この子には、こんなにたくさんの人がいるんだ」

    と思った。

    そして里帰りを終えたあとには、夫の実家で、夫の両親と一緒に約三か月生活することになった。

    私たち夫婦だけですべてを抱えるのではなく、娘の周りにはいつも誰かがいて、いろいろな人が娘を見て、抱いて、声をかけながら、私たちの子育ても一緒に見守ってくれた。

    妊娠中は、病気のことを知るたびに、

    「私たちは、この子をちゃんと育てられるのだろうか」

    と考えていた。

    でも実際に子育てが始まってみると、私たち二人だけで育てているわけではなかった。

    たくさんの人の手と、たくさんの目と、たくさんの「可愛いね」に囲まれながら、娘は少しずつ大きくなっていった。

    いとちゃんは、産まれた頃から、人の顔をじーっと見る子だった。

    こちらが見つめると、まるで何かを確かめるように、じっとこちらを見返してくる。

    まだ言葉を話すわけでもないし、何を考えているのか分かるわけでもないけれど、その目で見つめられていると、

    「ちゃんと見てるんだな」

    と思った。

    そして少しずつ、笑うことも増えていった。

    最初は小さな笑顔だったものが、いつの間にか声を出して笑うようになり、そのうちゲラゲラと笑うようになった。

    妊娠中、エコー写真に映った大きな目を見ながら、

    「どんな顔で産まれてくるんだろう」

    と想像していた娘が、今は目の前で私たちの顔をじっと見て、声を出して笑っている。

    病気について説明を受けたとき、私はこれから起こるかもしれないことばかりを考えていた。

    呼吸は大丈夫なのか。

    目は見えるのか。

    耳は聞こえるのか。

    ミルクは飲めるのか。

    歩けるようになるのか。

    手術は必要なのか。

    未来に並んでいたのは、ほとんどが「できないかもしれない」という不安だった。

    でも、家で娘と毎日過ごしていると、その不安とはまったく別のところで、この子はちゃんと毎日を生きているのだと気づかされた。

    眠る。

    起きる。

    人を見る。

    抱っこされる。

    そして、笑う。

    できないことを数えれば、きっといくらでもあった。

    でも同じくらい、この子が今日できていることも、ちゃんとそこにあった。

    もちろん、病院との生活が終わったわけではなかった。

    内反足の治療も始まり、最初の頃はギプスを巻いていたため、一週間に一度、片道約90分をかけて病院へ通った。

    小さな身体に巻かれたギプスを見るたびに、やっぱりこの子には治療が必要なのだという現実を感じたし、これから先のことを考えれば不安になることもあった。

    内反足の状態が安定してからは足の診察が三、四か月に一度になり、耳や目も三か月に一度、口蓋裂についても一歳を過ぎてから予定されている手術に向けて、経過を見ながら三か月に一度の受診が続いていった。

    私たちの予定表には、少しずつ病院の予定が増えていった。

    それでも、病院へ通うことが私たちの生活のすべてではなかった。

    病院と病院の間には、家で過ごす普通の日があった。

    ミルクを飲ませて、お風呂に入れて、一緒に眠って、抱っこして、笑って、時には盛大に吐かれて箱ティッシュを取り出して、また着替えさせる。

    そんな毎日を繰り返しながら、少しずつ、

    「病気のある娘を育てている」

    という感覚よりも、

    「いとちゃんと暮らしている」

    という感覚のほうが大きくなっていった。

    そして、私がいちばん、

    「家族になったんだな」

    と感じるのは、三人で一緒に出かけられるようになったことだった。

    病院にいた頃は、娘に会うために私たちが出かけていた。

    娘はいつも、私たちが向かう場所にいた。

    でも今は違う。

    今日はどこへ行こうかと考えて、娘の荷物を準備し、胃管やミルクのことを確認して、もちろん箱ティッシュも忘れずに持って、三人で同じ場所へ向かう。

    娘に会いに行くのではなく、

    娘と一緒に出かける。

    その違いは、私にとってとても大きかった。

    毎日一緒にいること。

    朝起きれば、そこに娘がいること。

    夜になれば、同じ家で眠ること。

    出かけるときには、娘も一緒に行くこと。

    誰かにとっては、それはあまりにも普通で、わざわざ言葉にするようなことではないのかもしれない。

    でも私たちは、その「普通」が始まるまでに一か月と二十日かかった。

    だからこそ、一緒にいられることそのものが、私には家族になった証のように思えた。

    妊娠中から、私は何度も娘の未来を想像した。

    産まれてからも、検査の結果が出るたびに、その先に何があるのかを考えた。

    でも、家に帰って娘と毎日を過ごすようになって、少しずつ分かってきたことがある。

    家族になるということは、未来のすべてを知ることではないのかもしれない。

    この子が将来どうなるのかを全部分かっているから、一緒にいられるわけでもない。

    分からないことがあっても、不安なことがあっても、三時間おきにミルクを入れて、吐いたら拭いて、お風呂に入れて、一緒に眠って、病院へ通って、笑ったら一緒に笑う。

    そんな何でもない一日を、何度も一緒に過ごしていくこと。

    それが、家族になっていくということなのかもしれない。

    いとちゃん。

    あなたは、小さな身体で毎日を生きていた。

    そして私たちも、あなたと一緒に、初めての毎日を生きていた。

    できないことではなく、今日できたことを見る。

    まだ分からない未来ではなく、今、目の前にいるあなたを見る。

    そうやって過ごしているうちに、

    病院で始まったあなたの人生は、

    少しずつ、

    私たち家族の日常になっていった。

  • いとちゃんの物語 第二章 第五話

    あなたと帰るために

    🌏Read in English

    赤ちゃんは、お腹が空いたら泣いて、その声を聞いた親が抱き上げてミルクをあげれば、やがてお腹いっぱいになって眠っていく。

    娘が産まれるまでの私は、それを「育児」と呼ぶことすらないくらい当たり前の光景だと思っていて、赤ちゃんにとってミルクを飲むことそのものが難しかったり、飲むために練習が必要だったりすることなど、ほとんど考えたこともなかった。

    いとちゃんは、産まれて間もない頃、一度だけ10mlほどのミルクを口から飲めたことがあった。

    たった10mlと言ってしまえばそれまでだけれど、その頃の私たちにとっては、その10mlがとても大きな数字に思えて、「飲めた」という事実だけで嬉しくなり、もしかしたらこのまま少しずつ飲める量が増えていくのではないかと期待した。

    10mlが20mlになって、20mlが30mlになり、いつか哺乳瓶から必要な量を全部飲めるようになる。

    そんな未来を、勝手に思い描いていた。

    けれど、それ以降、娘が口からミルクを飲むことはほとんどなくなり、哺乳瓶を口元へ持っていっても舐める程度で、吸って、飲み込んで、お腹を満たすという、私が赤ちゃんなら自然にできるものだと思っていたことが、娘にとってはとても難しいことなのだと少しずつ分かっていった。

    娘には口蓋裂があったため、NICUにいた頃には少しでも口から飲みやすくなるようにと、口蓋裂のためのマウスピースも作ってもらった。

    これを使えば、もしかしたら飲めるようになるかもしれないと期待しながら実際に試してみたけれど、娘の飲み方に大きな変化はなく、やはり口から飲める量はほとんど増えなかった。

    最初は10ml飲めたのに、どうして今は飲めないんだろう。

    何が違うんだろう。

    どうしたら飲めるようになるんだろう。

    いくら考えても、私たちには分からなかった。

    それでも、口から飲めないからといってミルクをあげなくていいわけではなく、娘が生きて大きくなっていくためには、必要な栄養を何らかの方法で身体へ届けなければならなかった。

    だから、娘は胃管からミルクを飲んだ。

    一気に流し込むのではなく、シリンジを使いながら30分ほどの時間をかけて、娘の様子を見ながらゆっくり、少しずつ胃の中へミルクを届けていく。

    口から飲むわけではないし、腕の中で哺乳瓶をくわえさせるわけでもないから、私が妊娠中に思い描いていた「授乳」とはずいぶん違う形だったけれど、それでもこれは間違いなく、娘にとっての大切な食事だった。

    大学病院へ転院してからは、退院したあとも私たち自身で同じことができるように、胃管からミルクを注入する方法やシリンジの使い方を教えてもらい、さらに胃管そのものを入れる練習も始まった。

    これは、本当に怖かった。

    鼻から細い管を入れ、それを胃まで通していくということを、看護師さんがやっているのを見ているときには、迷いなく手を動かしているように見えていたのに、

    「では、やってみましょう」

    と言われて自分の手でその細い管を持った瞬間、それまで見ていたものとはまったく違うことのように感じた。

    本当に、これを私が入れるのだろうか。

    こんなに小さな身体の、こんなに小さな鼻から、私の手で管を入れていくのだろうか。

    頭では、必要なことだと分かっていたし、退院したあとも胃管からミルクをあげるのだから、私たちができるようにならなければ家へ帰ることはできないということも理解していた。

    それでも、いざ娘の鼻に管を入れようとすると手が止まり、最初の頃はどうしてもためらってしまって、なかなか先へ進めることができなかった。

    そして、娘も泣いた。

    小さな顔をくしゃくしゃにして泣いている娘を目の前にしながら、その鼻から管を入れていかなければならないということがつらくて、娘のためにやっているはずなのに、まるで自分が娘に痛いことをしているような気持ちになった。

    「ごめんね」

    心の中で何度もそう言いながら、それでも途中でやめるわけにはいかなかった。

    この子を苦しませたいわけではない。

    この子が生きるために必要だからやっている。

    頭では何度そう考えても、泣いている娘を見ながら管を入れることに、最初から迷いなく手を動かすことなんてできなかった。

    夫も私も、同じように練習した。

    どちらか一人だけができればいいわけではなく、家に帰れば私たち二人で娘を育てていくのだから、胃管を入れることも、シリンジを扱うことも、ミルクを注入することも、二人ともできるようにならなければならなかった。

    何度か練習していくうちに少しずつ手順は分かるようになり、最初の頃のように管を持ったまま何もできずに固まってしまうことは減っていったけれど、それを「慣れた」と呼ぶのは少し違うような気がする。

    怖くなくなったわけでもないし、娘が泣いても何も感じなくなったわけでもなく、ただ、この子が生きていくために必要なことなら、私たちができるようにならなければならないという気持ちのほうが、少しずつ怖さよりも大きくなっていったのだと思う。

    そして、ミルクについてもう一つ戸惑ったのは、娘がお腹を空かせているのかどうかが、私たちにはよく分からなかったことだった。

    私はずっと、赤ちゃんはお腹が空けば泣いて、それを見た親が「あ、お腹が空いたんだな」と気づき、ミルクをあげるものだと思っていた。

    けれど、いとちゃんには私たちが分かるようなはっきりとした反応がほとんどなく、今お腹が空いているのか、まだ大丈夫なのか、ミルクが欲しいのか、そうではないのか、娘の顔を見ているだけでは分からなかった。

    だから私たちの授乳は、「欲しがったらあげる」というものではなく、一日に何回、何時間おきと決められた時間に合わせて、時間が来たらミルクを準備し、シリンジを胃管につないで30分ほどかけてゆっくり注入するというものだった。

    娘がお腹を空かせて泣いたからミルクをあげるのではなく、時計を見て、

    「そろそろミルクの時間だね」

    と準備を始める。

    それが、私たちにとっての授乳になった。

    口からは、ほとんど飲めない。

    それでも、哺乳瓶を口元へ持っていき、ほんの少し舐めるだけでも、それがいつか「飲む」ということにつながってくれるかもしれないと思いながら、娘の小さな口元を見つめていた。

    以前の私は、赤ちゃんがミルクを飲むということをもっと単純に考えていて、腕の中に赤ちゃんを抱き、哺乳瓶を持って、飲み終わったらゲップをさせるという一連のことを「授乳」だと思っていた。

    でも、娘を見ているうちに、

    「飲む」ということは、生きることなんだ。

    そんなふうに思うようになった。

    口から飲めなくても、娘の身体には栄養が必要で、その栄養を届けるために胃管があり、私たちが30分かけて少しずつ入れているミルクが、娘の身体の中に入って、これから大きくなっていくための力になっていく。

    小さな骨も、筋肉も、皮膚も、これから寝返りをしたり、座ったり、いつか立ったりするための身体も、今こうして一本の細い管を通って入っていくミルクからつくられていく。

    そう考えるようになると、胃管からミルクを入れる時間の見え方も、少しずつ変わっていった。

    最初の頃は、「普通に飲めない」ということばかりに目が向き、どうしてできないのだろうと考えていたけれど、口から飲めないなら胃管があり、胃管があるから娘は必要な栄養を受け取ることができるのだと思えば、

    今は、これでいい。

    そう思える瞬間も少しずつ増えていった。

    いつか口から飲めるようになるのか、どのくらい飲めるようになるのか、その答えはまだ誰にも分からなかったけれど、分からない未来のために、今日の娘ができていないことばかりを見る必要はないのだと思った。

    大学病院には、三週間ほど入院した。

    その三週間の中で、私たちは胃管の扱い方やシリンジの使い方、ミルクの注入、沐浴、娘の身体の様子を見るときに注意することなど、家に帰ってから必要になることを一つずつ覚えていった。

    何か一つできるようになるたびに、

    「これでまた一つ、家に近づいた」

    と思った。

    最初の病院では、先生や看護師さんたちに娘の命を守ってもらった。

    そして大学病院では、これからは私たち自身が娘を守りながら一緒に暮らしていくために、必要なことを教えてもらっていたのだと思う。

    そうして、娘が産まれてからおよそ一か月と二十日が経った頃、ずっと待っていた日が、ようやくやってきた。

    退院。

    妊娠中の私は、赤ちゃんが産まれたら数日後には一緒に家へ帰るものだと思っていたけれど、私たちが三人で同じ家へ帰れるようになるまでには、一か月と二十日ほどの時間が必要だった。

    長かった。

    本当に、長かった。

    NICUへ毎日通った日々も、夫が休みの日には二人で車に乗り、仕事の日には私が一人でミルクを持って片道90分の電車に揺られた日々も、娘の顔を見ただけで涙が出た日も、沐浴をしながら「ああ、私はこの子のママなんだ」と初めて実感できた時間も、胃管を入れることが怖くて手が止まった日も、泣いている娘に「ごめんね」と思いながら管を入れた日も、シリンジを使って30分かけてミルクを入れる練習をした日も、全部がこの日のためにつながっていたように思えた。

    退院の日、私たちは娘と一緒に病院の外へ出た。

    産まれてからずっと、娘にとっての世界はほとんど病院の中にあり、白い天井や機械の音、先生や看護師さんたちの声、NICUや病室が、この子が知っている世界のほとんどだった。

    そして、その日。

    いとちゃんは初めて、

    病院の扉の向こう側へ出た。

    初めて、外の空気に触れた。

    空があって、風が吹いていて、車が走り、人が歩いているという、私たちにとっては何度も見てきた何でもない景色が、娘にとってはその日初めて出会う世界だった。

    娘の小さな顔を見ながら、

    「外だよ」

    と、心の中で話しかけた。

    この子は今、初めて外の空気を感じているんだ。

    そう思った瞬間、これまで病院へ通い続けてきた一か月と二十日ほどの時間が一気に頭の中へ戻ってきて、胸の奥から言葉にできないものが込み上げてきた。

    ようやく、三人で帰れる。

    今度は私だけが家へ帰るのではない。

    娘を病院に残したまま、誰もいない家で夜を迎えるのでもない。

    今日は、

    いとちゃんも一緒に帰る。

    あの頃、家に帰るたびに感じていた空っぽの場所に、ようやく娘が帰ってくる。

    もちろん、不安がなくなったわけではなかった。

    病院を出れば、いつでもそばに看護師さんがいるわけではないし、先生もいない。

    ミルクの時間が来れば私たちが胃管から注入し、もし管が抜ければ私たち自身で入れなければならず、娘の呼吸や表情、身体の様子に変化がないかも、自分たちで見ていかなければならない。

    嬉しい。

    でも、怖い。

    その二つの気持ちは、最後までどちらか一方になることはなく、同じ場所にずっと存在していた。

    それでも私たちは、

    三人で病院を出た。

    いとちゃん。

    産まれてから、一か月と二十日。

    あなたはその日、初めて外の空気に触れた。

    そして私たちはその日初めて、三人で同じ家へ帰った。

    もしかしたら、私たちが妊娠中に思い描いていた「普通」より、少し遅い始まりだったのかもしれないし、想像していた帰り方とはずいぶん違っていたのかもしれない。

    胃管もある。

    口からミルクもほとんど飲めない。

    これから覚えなければならないことも、向き合わなければならないことも、きっとまだたくさんある。

    それでも、あの日、病院の扉を三人で出て、娘が初めて外の空気に触れた瞬間から、私たちがずっと待っていた生活がようやく始まった。

    いとちゃん。

    おかえり。

    そして、

    初めての外の世界へ、

    ようこそ。